第二章 1分子気体パズルに挑む
エネルギーと情報の交換
2006/08/22  

本節のテーマは次の疑問に答えることである。
  「本来、場合の数とエネルギーの間には何の関係もないはずではないか?」

これまで幾つかの例によって「因果律があるから第二種永久機関は不可能」と述べてはきたが、この主張は「場合の数とエネルギーが直結している」という前提の上に成り立っている。 よく考えてみると、1通り、2通りと数えることのできる状態数と、物と動かす力は「本来全く別のもの」ではないだろうか。 たとえ古典力学の法則、因果律が絶対だったとしても、”場合の数”とエネルギーを切り離すことができれば、因果律に否定されることなしに第二種永久機関が実現できるのではないだろうか。

ここでは「エネルギー交換」による悪魔の装置を考案しよう。 基本的な設計方針は「大きなエネルギーを得るために、小さなエネルギーを犠牲にする」というもの。 ”飛んでくる方向のわからない大きな運動エネルギーを持った分子”の向きを特定する代わりに、”小さな運動エネルギーを持つ分子”の向きを不定にするのである。 この装置は2つの物を取り入れる。 1つは熱運動する分子A、もう一つは既知の運動をする分子B〜これまで信号と呼んできたもの〜である。 そして、装置から取り出されるのは以下の2つ、運動量がはっきりとわかっている分子A、でたらめな運動を行う分子B。 ここで、もし(分子Aの運動エネルギー)>(分子Bの運動エネルギー)だったなら、我々は大小の運動エネルギーの差分だけのエネルギーを手に入れたことになるだろう。 また、”場合の数”について言えば、最初に分子Aが背負っていた”わからなさ”は分子Bが背負うことになるのだから、因果律には違反していない。

このような交換自体が物理的に不可能でないことは、直感的にもわかることと思う。 私たちが走行している自動車を見た場合、目に入ってくる光のエネルギーより自動車の持つ運動エネルギーが大きいことは明白であろう。 ここで自動車の来た向きに合わせて適宜交通信号を変えてやれば、同じ方向に向かわせることも不可能ではない。 同様の操作は相手が分子だって可能なことだ。

分子Aは外部から熱運動で飛んでくる気体分子〜簡単のため、例によって右か左かのどちらかから飛んでくるものとしよう。 分子Bは、分子Aより小さな運動エネルギーを持っているという前提だから、できるだけ遅く、いっそのこと静止した分子を置くということにすればよいのではないか。 分子Bは、分子Aに比べてずっと質量が小さいものとする。 こうしておけば分子同士が衝突しても、分子Aにはあまり影響がない〜分子Aの持つ運動エネルギーを損なわない。 まず、装置内には”測定用の”分子Bを置いておく。 ここに外から分子Aが飛んできて、分子Bに衝突、分子Bを弾き飛ばす。 飛ばされた分子Bは装置内部の測定装置に引っかかって、次いでやってくる分子Aからエネルギーを取り出すように誘導する。 測定を終えた後の分子Bは使い捨てで構わない。 すでにその分のエネルギーを分子Aから受け取っているのだから、十分に元はとっている。

以上のように衝突のプロセスだけを考えた場合、「エネルギーと場合の数」のやりとりには何の不都合も生じない。 上記のような衝突によって、確かに分子Bの持つ場合の数は増えることになる。 しかし、より大きなエネルギーを有する分子Aの運動が特定できれば、小さな犠牲は払ってもよいであろう。 このような方法で悪魔の装置を実現できるのであろうか。

今回の装置には、2つの点に見落としがある。 1つ目は「静止した分子B」を用意するのが大変(エネルギーを食う)ということ。 2つ目は使い捨てにしたはずの分子Bが、熱運動に煽られて戻ってくることである。 ”静止した分子”というのは、温度が低い分子に他ならない。 つまり、あらかじめ分子Bを冷やしておかなければならないわけで、これなら温度差によって動く熱機関と何ら変わらない。 (質量の大きな分子なら動かないかもしれないが、分子Aより小さな質量でないと用を為さない。) また、分子Bが熱運動で逆流しないためにも、廃棄処分にそれ相応のエネルギーがかかる。 根本的な問題は、分子A、分子Bを”同じ温度”の場所から取ってきて”同じ温度”の場所に廃棄しなければならない、という点にある。 「静止した分子Bさえ用意することができればエネルギーを取り出すことができる」という考察は、「エネルギーを得る為には温度差が必要」という論理を裏付けているのである。

以上の「分子衝突の悪魔」は、単純ですぐに嘘が見破れたかもしれない。 このシンプルな例を持ち出したのは、次のことが言いたかったからである。
「どんなに目を皿のようにしても衝突のプロセス自体に間違を発見することはできない。不合理は同じ温度の下にさらされている、という辺りから見つかる」
ということ。
「場合の数とエネルギーの間には何の関係もないはずだ」というのは”衝突のプロセス”だけに着目する限りは正しい主張なのである。 ”周囲の温度”がなければ、場合の数とエネルギーの間には何の関係もない。 ところが、これが”ある一定の温度の下に”どっぷりつかったとたん、深い意味を持ちはじめる。 ”温度”とは、”情報”というものを買う(運ぶ)ために必要な”エネルギーの相場”のようなものである。 ”温度が高い”ということは、”情報の相場が高い”ということに相当する。 絶対零度なら(熱雑音が全くないのだから)ほんのわずかのエネルギーで大量の情報を運ぶ(買う)ことができる。 温度が高ければ、同じ情報量を運ぶにも大きなエネルギーを”支払”わなければならない。 ”相場”なのだから、店によっては少々高い所もあるかもしれないし、たまたま安売りしている所があるかもしれない。 これが”ゆらぎ”に相当する。 しかし、おしなべて全体を見渡すと「情報1bitあたりいくら」といった適正価格が存在する。 この適正価格こそがすなわち”温度”なのである。 よく考えると、物の値段だって人間が勝手に取り決めたもので「本来幾らでなければならない」という掟が存在するわけではない。 にも関わらず適正価格が決まるのは、数多くの取り引きの平均をとるからであろう。

通信機を使ってどこかに情報を伝達するには、伝達信号に雑音に負けないだけのエネルギーが必要となる。 この事情は信号が、電波、光、音声、その他何であっても変わらない。 在来の熱機関の効率をはるかに上回るエンジンを作ろうとする試みと、極限までに少ないエネルギーで大量の情報を伝達しようとする試みとは、同じ壁に行く手を阻まれているのである。 熱雑音さえなければ、ごく微弱な信号に大量の情報を乗せることは決して”物理的に不可能”なわけではない。 通信ケーブルが外部ノイズから完全にシールドされていれば信号エネルギーの下限、などという概念は存在しなかったのである。

「場合の数とエネルギーの間には何の関係もないはずではないか?」これはもっともな疑問であろう。 経済社会のないところで”物”に”値段”などという属性が付いていなかったように、温度のないところで「場合の数3通りにつきエネルギー幾ら」などというルールは存在しなかったのだ。 ”適正価格”は”周囲とのバランス”によって決定される。 悪魔の装置で”外部の熱雑音に接する”ということは、ちょうど自由市場に接するのと同様である。 装置全体を断熱壁で保護し、内部だけで価格を釣り上げようとしても、外部の自由市場と接する所でボロが出てしまうのである。 本節で考えた悪魔の装置は「情報量とエネルギーを上手に取り引きして儲けることはできないか」というアイデアだったのだが、人間の世界ならいざ知らず、どうやら物理の世界にうまい裏取り引きはなかったようだ。

ページ先頭に戻る▲