第二種永久機関、マクロな例
2006/08/16
過去に為された第一種永久機関の試みは全て失敗に終わった。 無から有を生じることはできない。 逆に言えば、有を無に帰すこともできない、ということになる。 仮に第一種永久機関があったとすると、逆に回せばエネルギーを際限なく吸い込む装置となるだろう。 エネルギーを産み出すことと消滅させることは表裏一体で、一方が可能なら他方も可能となる。 実際、エネルギーというものは増えも減りもしない。 エネルギーの形態は変化すれども総量は常に一定に保たれる。 (原子力まで含めて考えれば、エネルギー+質量の総量は一定に保たれる) いまここに、ヤカンいっぱいの100度の熱湯があったとしよう。 ヤカンを室温20度の部屋に放置すれば、熱湯はやがて冷めて水になる。 しかし、熱湯の持っていたエネルギーは消滅したわけではない。 熱湯が冷めた分だけ部屋全体が暖まっているはずだ。 最終的には、ヤカンも部屋も20.1度ぐらいに落ち着いた状態となるだろう。 エネルギーを新たに生み出すことが不可能なのと同様に、既にあるエネルギーをこの世から消し去ることもまた不可能なのである。 だとすれば、一度使ったエネルギーを回収して再び利用することはできないのだろうか。 エネルギー自体は「不滅」なのだ。 もしエネルギーの再利用ができれば、いつまでも回り続ける無限のエネルギーを手に入れたことになるだろう。 このようなエネルギー再利用の試みを、第一種の永久機関とは別の意味での永久機関ということで、「第二種永久機関」と言う。 「第二種永久機関」とは、いわば「エネルギーの完全なリサイクル」を行う装置のことだ。 より正確な定義は次の様になる。
第二種永久機関とは、一つの熱源から熱をとってこれを仕事に変える以外に、外界に何の変化も残さずに周期的に働く機関のことである。
例えば船を走らせることを考えたとき、船の推進に使われたエネルギーは水の運動に変化し、水の運動はやがて水温の一部に変化する。 もしここで、海水の水温を動力源としてもう一度船の推進力に変えることができれば、この船は他に何の燃料も使わずに永久に走り続けることができるだろう。 この走り続ける船のような、第二種永久機関は果たして実現可能なのだろうか。 以下に検討してみよう。 発電の方法の一つに「海洋温度差発電」というものがある。 この発電所は海水の水温をエネルギー源として電力を得ている。 ということは、海洋温度差発電は第二種永久機関なのだろうか。 そうではない。 第二種永久機関との決定的な違いは「温度差」という点にある。 海水の温度を調べると、水面近くの方が深いところよりも高温になっている。 発電所はこの温度差を利用しているのだ。 海洋温度差発電の原理は火力発電所と何ら変わらない。 ただ、水蒸気を使うかわりに海水の水温でも沸騰するような液体、アンモニア等を用いているだけのことだ。 発電所をイメージすると作業物質を熱する方に気をとられがちだが、冷却する手段も必要だということを忘れてはならない。 火力発電でも海洋温度差発電でも、一度蒸気になった作業物質を冷たい海水を使って冷却している。 冷却装置なしに発電所は動かない。 石油を燃して得た熱であれ、海の表面のわずかな高温であれ、とにかく温度差さえあれば発電は可能だ。 温度差に合わせてアルコールなりアンモニアなり適当な作業物質を見繕えばよいのだから。 (あるいは、発電所内部の気圧を調整すればよいのだから。) ところが温度差が始めから全く無かったら、いかなる作業物質を用いても発電所を動かすことはできない。 たとえ周囲の気温が1000度であったとしても、一様に1000度だったなら発電は不可能なのだ。 先に挙げた第二種永久機関の定義中にある「一つの熱源から熱をとって」というくだりは、「2つ以上の温度差のある熱源とやりとりする機関は第二種永久機関ではない」ということを表していたのである。 ところで、海の水は表面付近が温かく底の方が冷たくなっているのだが、この温度差は自然に生じたものだ。 お風呂を沸かすと上が熱く下がぬるくなるだろう。 暖められた水は膨張して軽くなるので自然と上部に集まってくる。 つまり水は放っておけば勝手に温度差を作ってくれるのだ。 この温度差を発電に利用しない手はない。 お風呂でも、コップの水でも、その辺の水たまりでも構わない。 海洋温度差発電のミニチュア版を浮かべてどんどん発電すれば良いのではないか。 温度差発電は何も水にこだわる必要はない。 空気も上の方が先に暖まる。 膨張率の高い流体を使えば発電効率はさらに増すことだろう。 このような温度差発電を、どうして誰も作ろうとしないのだろうか。 お風呂のお湯にはっきりと温度差ができるのはどんなときだろうか。 答は冷たい水を急速に沸かしたときだ。(あるいは熱い湯が急速に冷めたときだ。) 温度差は、もともと冷たい中にエネルギーを注ぎ込むことによって生じる。 (あるいは、もともと熱い中からエネルギーを抜き去ることによって生じる。) 海水に温度差が生じるのも、太陽が海水を暖める一方で夜間や極部で海水が冷却されているからだ。 一度お風呂をかき混ぜて温度が均一になった後は、再び上に暑いお湯が集まることはない。 もう少し厳密に見たならば、かき混ぜた後であってもほんの少しだけ、上の方が下よりも熱くなるにはなる。 しかしこのわずかな温度差はもはや利用できない。 なぜなら温度差発電の中で使う作業物質も、水と全く同じように高温のものが上に集まろうとするからだ。 上部で暖めた作業物質を、どうやって下に動かすと言うのだろうか。 もう一つ、別の永久機関の例を挙げよう。 天気の良い日に虫メガネで太陽光線を集めれば火を起こすことができるだろう。 ところで、虫メガネを使っているときの周囲の気温はせいぜい2〜30度でしかない。 なのに虫メガネの焦点は非常に高温になる。 虫メガネや鏡を使って光を一点に集めれば、均一な温度の中でも高温の点が作りだせるのではないだろうか。 虫メガネが高温を作りだすのはれっきとした事実だが、これは第二種永久機関には成り得ない。 混乱の原因は、気温と光のエネルギーを混同している点にある。 太陽光のエネルギーは気温の熱とは別のものだ。 上着を着たほうが暑いけれども日焼けはしにくいだろう。 これは日焼けの原因が光(電磁波)であって熱ではないことを示している。 同じ気温の下であっても、真っ暗な部屋の中ではどうあがいても虫メガネで火を起こすことはできない。 虫メガネで永久機関を作る話はもう少し続く。 虫メガネで得た高温を気温と比べるのはやはり無理があったようだが、焦点の部分とそうでない周囲の部分を比較することは意味があるのではないだろうか。 焦点の部分は周囲の部分より高温になる、これは疑いのない事実だ。 先程は光の出所として太陽を考えたのだが、今度は高温の物体を想定してみよう。 どんな物体でも充分高温になれば光を放つ。 火の中の石は真っ赤に発光するだろう。 さらに温度が上がれば物体は黄色に、うんと高温では真白に輝く。 実は温度が低くても目に見えないだけで、赤外線が(あるいはもっと波長の長い電磁波が)放出されている。 光をレンズで集めることができたのだから、赤外線だって似たような手段で一点に集めることができるだろう。 いま、均一な温度の物体Aから放たれた電磁波をレンズで集めて物体Bの上に焦点を結んだとしよう。 こうすれば物体Aよりも物体Bの方が高温になるだろう。 あとは物体A、B間で通常の温度差発電を行なえば熱を全て仕事に変換できることになる。 ところが現実は予想に反して、どんなレンズを使おうとも物体Bは物体Aより高温にはならない。 なぜかというと物体Aから物体Bに向かって電磁波が届くのと全く逆のルートをたどって、物体Bから物体Aにも電磁波が届くからだ。 Aの温度がBよりも高いときには、AからBへの電磁波の方がBからAへの電磁波より多くの熱量を運ぶのだが、Bの温度が高くなるにつれて逆にBからAに戻る熱量も増えてゆく。 そしてAとBとが同じ温度になったなら、往きと復りが等しくなってそれ以上の温度変化はなくなる。 ある物体から放たれる電磁波のエネルギーは、元になった物体の温度に対応している。 100度の物体からは100度相当の電磁波が、200度の物体からは200度相当の電磁波が出ているのだ。 そして100度の電磁波をどれほどレンズでかき集めても200度の物体を加熱することはできない。 レンズは電磁波の「量」を集めるだけで「質」を高めているわけではない。 太陽光線をレンズで集めれば、原理的には太陽の表面と同じなるまで温度を上げることができる。 しかし太陽以上に暑くすることはできない。 もし太陽よりも暑くなったら、今度は逆に地球が太陽を暖めることになるだろう。 電磁波を使った永久機関は他にも考えられる。 真黒な物体と銀色の物体を日向に置いておくと、真黒な方が銀色よりも暑くなる。 つまりこれは温度差を作り出していることになる。 物体Aを真黒に塗り、物体Bを銀色に塗ってお互いに電磁波のやり取りをさせたなら(単に向き合わせるだけで良い)、Aの方がBより高温にならないだろうか。 今度の場合も思惑からはずれて、温度差はできない。 真黒な物体は良く電磁波を吸収するのと同時に、良く放出もする。 逆に銀色の物体はあまり吸収もしないが放出もしない。 吸収か放出かどちらか一方だけを良くする塗料は存在しない。 日向に置いた真黒な物体が銀色の物体よりも暑くなるのは、単に真黒な物体の温度が上がるスピードが銀色よりも早いというだけに過ぎない。 どちらの物体も太陽と同じ温度にまで達してしまえば、それ以上の温度変化は起こらない。 次にはまた別の永久機関を紹介しよう。 あらゆる化学反応には、正方向の反応と、その逆の反応が存在する。 酸素と水素は化合して水になるが、水は電気分解すれば元の酸素と水素に戻る。 大抵の化学反応は、正方向で発熱し、逆方向で熱を吸収します。 (正、逆という向きは反応が自発的に起こる向きで定義される。大抵の場合、正反応=発熱反応だが、稀に、例えば固体が液相中に拡散する反応などでは自発的な向きが吸熱反応ということもありえる。) ここで、正方向の反応だけ、あるいは逆方向の反応だけを加速する方法はないものかと考えてみよう。 思い当たるのは”触媒”を利用することだ。 触媒とは、化学反応を助けはするものの自分自身は反応しない物質のことだ。 よく知られている消化酵素も触媒の1種だ。胃液は蛋白質の加水分解を促進するが、胃液自体が最終的に蛋白質と結合するわけではない。 無数にある物質の中から、正方向の反応だけを、あるいは逆方向の反応だけを加速する触媒を見つけだすことはできないだろうか。 もしそんな触媒があれば、触媒を反応槽の中に入れたり出したりするだけで自由に熱を出し入れすることが可能となるだろう。 もとが均一な温度であっても、触媒を入れた反応槽と入れない反応槽の間では温度差が生じるから、これは第二種永久機関となる。 残念なことに、正、逆どちらか一方だけを加速するような都合のいい触媒は存在しない。 正反応を加速したなら、必ず逆反応も加速される。 ちょっと意外なようだが、胃液は蛋白質を分解するのと同時に、合成するのも助けているのだ。 それでもなぜ胃が肉を分解するのかといえば、胃の中にある分解すべき蛋白質の量が合成すべきアミノ酸よりも多いからだ。 一つの入れ物の中に蛋白質、アミノ酸、胃液を混ぜて置くと、最終的にはたくさんのアミノ酸と少しの蛋白質が共存した状態に落ち着く。 ここに新たな蛋白質を加えると、蛋白質はたちどころに分解されてアミノ酸となる。 逆に余分なアミノ酸を加えれば、アミノ酸の一部は速やかに蛋白質に変化するだろう。 蛋白質対アミノ酸の割合は一定に落ち着こうとする。 胃液、つまり触媒は、蛋白質、アミノ酸が一定の状態になるまでのスピードを上げる働きを持つ。 決して最終的な割合そのものを変えるわけではない。 最後にもう一つ、化学反応を応用した永久機関を考えてみよう。 上に挙げた蛋白質、アミノ酸、胃液の例の例のように、あらゆる化学反応は最終的に生成物が一定の割合で共存した状態に落ち着く。 そこで今度は、この生成物の濃度を変える方法を考えてみよう。 混合物の中からある物質だけをふるい分けるには、文字通りふるいを使えばよいだろう。 とはいえ金網のふるいでは目が荒すぎるので、目の荒さが分子程度のふるい、半透膜を使えばよい。 蛋白質、アミノ酸混合溶液を半透膜にかければ、大きな蛋白質分子だけをよりわけることができる。 当然、残った溶液の方はアミノ酸を多く含むことになる。 ここでそれぞれの溶液に胃液という触媒を加えれば、蛋白質の方は発熱反応が、アミノ酸の方では吸熱反応が起こるので温度差が作り出せるわけだ。 反応が終わったら触媒を取り除いて再びふるいにかければ、同じ溶液を何度でも繰り返し使用することができるだろう。 今度の場合、触媒は反応をスタート、ストップさせているだけですからルール違反はしていない。 (たとえ触媒を用いなくても、半透膜を押しつつ反応を連続的に行う仕組みを考えれば永久機関を形作ることができるであろう。) 今度こそ本当に動く永久機関を考えついたのだろうか。 残念ながら今回も落し穴がある。 半透膜で蛋白質を集める作業は、ふるいで大豆とゴマを分けるように簡単にはいかない。 溶液に濃度差があるとき、半透膜には浸透圧がかかる。 蛋白質を集めるには、浸透圧に打ち勝つだけの力で半透膜を押さなければならない。 半透膜を押す仕事を最終的に得られた仕事から差し引けば、余分なエネルギーは少しも残らない。 ここで考えた方法は「温度差を直接作るのができないならば、物質の濃度差を作ろう」というものだった。 しかし、物質の濃度差を作ることは温度差を作るのと同じくらいに難しい作業だ。 金網のふるいで簡単にできることが半透膜ではなぜ難しいのだろうか。 それは大豆と蛋白質分子の大きさの違いにある。 蛋白質分子は熱で運動するので、それを押さえ付けるのに力が必要だ。 この力が浸透圧として働く。 一方大豆は熱でぴょこぴょこ跳ねたりしないので、分離に余計な力はいらないというわけだ。 以上で我々は、熱、電磁波、化学反応、物質の濃度という4つの領域を見てきたわけだが、結局どんな方法を用いても均一な温度から利用可能なエネルギーは取り出せなかった。 ここで挙げた例をまとめると次のようになる。
1:温度差のある状態から温度が均一な状態にはなるが、逆はできない。
要するに「この世でおこる変化には向きがあって、決して逆は起こらない」ということだ。
暑いヤカンはさめるけれども、ヤカンが周囲の熱を集めてひとりでに沸騰することはない。
石油は燃えて水と二酸化炭素になるが、空気中の二酸化炭素と水が集まって石油の雨が降ってきたという話は聞いたことがない。
コーヒーとミルクは混ぜることはできるが、ミルクコーヒーをブラックに戻すことはできない。
3つとも、身近な体験から素直に納得のゆく事実だろう。
2:化学反応は最終的に、生成物がある一定の割合で存在する状態に落ち着き、そこから反応以前のもとの状態に戻すことはできない。 3:物質を混合するのは簡単だが、逆に入り交じった状態から分離した状態に戻すことはできない。 変化が完全に進行して、最後に行き着く状態のことを”平衡状態”と言う。 ”平衡”とは「往きと復りが等しく釣り合っている」という意味だ。 ”平衡”の概念を理解するには、上の電磁波の例が最も解かりやすいだろう。 2つの物体A、Bを向かい合わせに置けば、両物体は電磁波(光、赤外線 etc )の形でエネルギーのやりとりを行なう。 Aの方がBより温度が高いときはAからBに移動するエネルギーの方が多いので、Aの温度が下がってBの温度は上がる。 逆にBの温度が高ければエネルギーはBからAに移動する。 A、Bの温度が等しくなると、AからBに移るエネルギーとBからAに移るエネルギーが等しく釣り合うので、もうこれ以上温度は変化しない。 温度変化がなくなったからといって電磁波の放出が止まるわけではない。 電磁波はいつでも出ているのだが、往きと復りの強さが等しくなった点で物体の温度は一定となるのだ。 このように、あらゆる変化は最終的に「釣り合いがとれてもうこれ以上変化の仕様がない」ところまで進行する。 変化とは、平衡状態に至る過程なのだ。 ただ、平衡状態に至るまでのスピードは変化の種類によってまちまちで、中には非常に時間がかかるものや、きっかけがないと進まないものもある。 空気中に置かれた鉄塊は、最後には錆びて水酸化鉄になるのだが、そこに至るまでに何千年もかかるかもしれない。 山は削られて、まっ平になった状態が一番安定だ。 水素と酸素を混ぜておけば水になるはずだが、マッチで火をつけるとか電気火花を散らすといったようなきっかけが必要だ。 (ただしきっかけがなかったとしても極めて長い時間待てば水に変化するだろう。) 我々の身の回りにあって今なお変化を続けているものは(我々自身もその一つだが)、全て「平衡状態に至るまでの途中の姿」なのだ。 高い山もいつかは削られて平坦になるだろう。 造山活動でまた新しい山ができるのも地球内部が熱いうちで、地球自体が冷えきってしまえば新たな山ができることはなくなる。 電磁波のやりとりの話は地球と太陽の間にもあてはまる。 太陽もやがては燃え尽きて、太陽も地球も同じ冷たい星になることだろう。 宇宙にある全ての太陽が燃え尽きてしまえば、宇宙はもうこれ以上何の変化も起こらないような均一な温度に落ち着くことだろう。 我々がいつかは死ぬということを知っているように、宇宙全体も遠い未来には活動が停止するだろうという予想が成り立つ。 これを”宇宙の熱的死”と言う。 ただ、宇宙は広いので我々の日常経験をいきなり宇宙全体のスケールに拡大するのは大いに疑問である。 宇宙の遠い未来については、まだまだ我々の知恵の及ばぬところも多いであろう。 それでは、地球のもう少し近い未来についてはどうだろうか。 私は、”文明の熱的死”は単なる空想事として片づけられない問題だと感じているのだが、いかがであろうか。 身近に起こる色々な変化を観察すると、どうやら変化の向きには一定のルールがあることに気づかれることと思う。 そのルールとは
あらゆる変化は、偏在した状態から均一な状態に向かって起こる
というものだ。
第二種永久機関とは、どうにかしてこの変化の向きを逆転できないかという努力だった。
しかし、変化の逆転は土台無理なことだったのである。
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