序章 甦るMaxwellの悪魔
要約 〜 3つの条件
2006/08/15  
熱運動を利用可能なエネルギーに変える際に課せられる条件とは、以下の3項目である。
   1:時刻不確定の制約条件
ある一定時間内に取り出すことができるエネルギーの大きさ E は、エネルギーの出力の仕方についての場合の数、つまり出力パターンの総数 N の対数を超えることはない。
E <= kT ln N
  k : ボルツマン定数
  T : 絶対温度
  N : エネルギーの出力の仕方についての場合の数、出力パターンの総数

この式の形自体は目新しいものではないが、注意すべきは N の意味である。 ここで言う N は、エネルギーがいつ出力されるかについての場合の数、つまり時間軸上の場合の数を意味している。 普通に統計力学で用いられるような、空間上の配置についての場合の数を意味するものではない。

取り出されるエネルギーEを縦軸に、時刻tを横軸にグラフを描いたとしよう。 出力パターンの総数 N とは、このグラフ上に描かれている線の本数のことである。
出力の仕方が決定的で予測がつくとき、グラフ上の線は1本だけである。 このとき N=1 であり、取り出されるエネルギーの大きさは kT ln 1 = 0 となる。 つまり出力が決定的な場合には、エネルギーを取り出すことができない。
出力の仕方が2通りあって、そのどちらになるか予想がつかないとき N=2 である。 このとき取り出されるエネルギーは E <= kT ln 2 であり、幾ばくかのエネルギー(>0)が得られる可能性がある。

上ではグラフ上の線の重みは全て等しいものとしたが、一般には確率的な重みを乗じた値を用いる。 いま、出力の仕方がN通りあって、それぞれの実現確率がPnであったとしたとき、上の ln N に相当する項は

Σ Pn * ln( 1 / Pn )
となる。
取り出されるエネルギーEの大きさは、即ち
E <= kT Σ Pn * ln( 1 / Pn )


   2:一時性の制約条件
温度差の無い初期状態から最終的に温度差を生じることはできない。
また、最終的に温度差が作れるような状態を生じることもできない。
この制約は単に熱力学第二法則を繰り返したに過ぎないのだが、ここでもう1つ、次の言明を付け加えよう。
温度差が在る状態、または温度差を作れるような状態は、一時的にだけ、実現することができる。

熱力学第2法則によれば、また、経験的に言っても、温度差の無い初期状態から最終的に温度差を生み出すことはできない。 しかし「一時的に」であれば、温度差が生じることは法則によって禁止されてはいない。 熱運動から取り出される「利用可能なエネルギー」は「一時的」にか存在し得ず、永続的に「利用可能な状態」に留まることはできない。 最終的には得られた利用可能なエネルギーの全てを、元の熱に返さなければならない。 それゆえ、このエネルギーを用いて何らかの永続的な結果を残すことはできないのである。
逆に言えば「一時的に」でありさえすれば、利用可能なエネルギーが得られたとしても矛盾は生じない。 ある一定の期間内で「いつ取り出されるか分からない」という条件を付ければ、エネルギーを熱運動から「一時的に借りることができる」のだ。 借りている間は、得られたエネルギーを任意の目的に使用することができる。

それでは、一体どれほどの期間エネルギーを「借りている」ことができるのか。 それは「エネルギーの作用する時刻が不確定である期間中」である。 エネルギーが作用する時刻が分からない場合に限り、その「わからない分だけの」エネルギーが利用できる。 ここで、測定等の操作を通じてエネルギーが作用する時刻を特定しようとすれば、測定の操作に費やすエネルギーの大きさは借りてきたエネルギーを上回る。 借りてきたエネルギーに付帯する「時刻不確定」という性質を失った時点で、エネルギー自体が元の熱に帰すのである。


   3:エネルギーの上限
一定時間内に取り出されるエネルギーの大きさには上限がある。

古典的な考え方に基づいて時間が連続的なものとすれば、時間の最小単位が存在しないため、一定時間内にいくらでも大きな「場合の数」を埋め込むことが可能となる。 しかし不確定性原理に基づいて考えると、時間xエネルギーの大きさに最小単位が存在するため、一定時間内の「場合の数」には上限が定められる。 それゆえ、一定時間内に取り出される利用可能なエネルギーの大きさにも上限が課せられることになる。

1秒間あたりに取り出される利用可能なエネルギーの上限値を、最も単純な場合について見積ってみよう。 ここでは時間を離散的に扱い、ある小さな最小単位が存在するものとしよう。 「エネルギーが次に取り出されるまでの待ち時間が1単位時間後か、2単位時間後かのいずれかわからない」 場合について考察する。このとき1回に取り出されるエネルギーの大きさは
  ΔE <= kT ln 2
不確定性原理によれば、
  ΔtΔE = h
ΔEが大きければΔtはいくらでも小さくなるのだが、ここではΔEは取り出されるエネルギーの大きさでもあるので、無制限に大きくはならない。 エネルギーが取り出される時刻が「1単位時間後か、2単位時間後かのいずれかわからない」場合をあてはめれば
  Δt >= h / kT ln 2
この逆数をとって、1秒間は最小単位時間がいくつ分に相当するか、つまり最小単位時間の「クロック数」S は
  S <= 1/Δt = ΔE / h = kT ln 2 / h クロック
ΔEは1〜2クロックに1回の割合で稼ぎ出されるので、1秒に流れるエネルギーの最大値は
  S * ΔE <= (kT ln 2 / h) * kT ln 2      ・・・1クロックで取り出せた場合
  S * ΔE <= (kT ln 2 / h) * kT ln 2 * (1/2)  ・・・2クロックかかった場合

具体的に値を見積もってみよう。

 プランク定数: 6.626068 × 10^-34 (m^2 kg / s)
 ボルツマン定数: 1.38 × 10^-23 J/K (joules/kelvin).
 絶対温度: T(K) = T(℃) + 273.15  ・・・気温 20℃ は 293.15K
 ln 2 = 0.693147181

1分子が1秒間に稼ぐことのできる利用可能なエネルギーの最大値は
(kT ln 2 / h) * kT ln 2   (1クロックで取り出せた場合)
= (1.38 * 10^-23 * 293.15 * 0.69 ) ^ 2 / (6.63 * 10^-34)
= ( ( 1.38 * 293.15 * 0.69 ) ^ 2 / 6.63 ) * (10 ^ ( -23 -23 + 34 ) )
= 11752.29 * (10 ^ -12)
= 11.75 * (10 ^ -9) (joules/s)
この値はエネルギーが1クロックで取り出せた場合である。
エネルギーを2クロックかかって取り出した場合の値は上の半分となる。即ち
11.75 * (10 ^ -9) / 2    (2クロックかかった場合)
= 5.88 * (10 ^ -9) (joules/s)

取り出されるエネルギーの大きさは、日常の感覚からすれば無視できる程に小さい。 なので、実際のところ自動車の様な巨大な物体を動かせるかどうか、かなり疑わしい。 それでも、この小さなパワーは将来開発されるであろう分子程度の大きさの機械にとって無視できない大きさではないだろうか。

以上の3条件から、中心となる論点をピックアップしてみよう。
 ・時刻不確定
 ・一時性
 ・時間の最小単位
問題の中心となる概念、主役は「時間」だということがお解り頂けるだろうか。
「熱運動を動力源として利用できないか」という問いかけは、 「時間とは何か」という古来からの根源的な問いかけに還ってゆくのである。
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