第六章 やわらかい分子機械
未来へのシナリオ 〜 微細機械が分子モーターで動き続ける日
2006/08/29  

最後に、不確定分子モーターの今後の展望と課題について触れておこう。

私が不確定分子モーターのアイデアを思いついた当初、それは単なる「頭の中のお遊び」でしかなかった。 ただ1個の気体分子が入ったピストンや隔壁、測定装置などで組み立てられたパズル。 確かにお遊びとしてはおもしろいかもしれないが、改めて実験的に確かめることができるかと問われれば、まず望み薄であった。 どのようにして分子サイズのピストンや測定装置を作ればよいのか、全く見当が付かない。 そもそも仮想的な1分子ピストンといった仕組みは実現性に乏しい。 それゆえ、この不確定分子モーターというお話自体がまじめな科学というより、せいぜい奇妙なSFにしかなり得なかったのである。

ところが、時代の移ろいは想像以上に速かった。 驚くべきことに生物の作り出した「やわらかい分子機械」が、頭の中のお遊びでしかなかった不確定分子モーターを既に作り上げていたのだ。 最近になって、人類はようやくそのことに気付いたのである。 こうなると、いままでSFだったものが、にわかに現実的な目標として浮かび上がってくる。 生物をお手本としよう。 生物の真似をしてタンパク質で上手い仕組みを作り上げれば、本物のマックスウェルの悪魔が実現できるかもしれない。

とはいえ、悪魔の実現までの道のりは決して短くはない。 グニャグニャしたタンパク質の分子構造を眺めても、これが一体どのように動くのか、私には想像も付かない。 悪魔の実現に向けて、今後、さらに多くの粘り強い努力が必要となるであろう。 しかし、その成果は最終的には実を結ぶことを信じて疑わない。

以下に今後の課題を列挙する。

理論の検討:
・数学的側面の整備
  数理的な表現を用いれば、本論はもっと簡潔に整備されるものと思う。
  (本論の歯切れの悪さは単に私の力量不足であり、願わくば数学の得意な方の助力を求む。)

・量子論をベースにしたらどうなるか
  本論では古典的な範囲に限って話を進めてきたが、量子論をベースにすれば、また違った側面が見えてくるであろう。
  この場合、量子論的な意味での「不確定」分子モーターがあり得るかもしれない。
観測:
・筋肉を始めとする生物分子モーターの解析
  「熱ゆらぎの利用、有りや無しや」の議論は、ここが正念場となるであろう。
  まずは「熱ゆらぎを利用している」という決定的な証拠をつかむこと。
  次に、グニャグニャしたタンパク質が一体どのようにして動くのか、その秘密の解明が待っている。
制作:
まだSFの段階。

・タンパク質ベース
  生物が用いている素材は最も「実績がある」。

・タンパク質以外の機能性高分子
  タンパク質以外となると、いまのところこれといったあてが無い。
  ただ、飛行機が必ずしも鳥に似ていないように、原理的には他の素材でも構わないはず。

・半導体テクノロジーの応用
  コンピュータで培った半導体加工技術をベースにした不確定分子モーターはできないだろうか。
  この場合、得られる出力は力学的な仕事ではなく、電力になるであろう。

  

本章の終わりにあたって、不確定分子モーターの持つ夢と可能性について記したいと思う。

正直なところ、科学やテクノロジーが人々に夢を与えていたのは古き良き時代のことだったとの感は否めない。 現代に生まれてきた子供たちが、科学がもたらすユートピアを頭から信じているとは、私には到底思えないのである。 しかし、こういう時代だからこそあえて、不確定分子モーターの描き出す世界をここに記しておきたい。

読者諸兄は蒸気機関に対してどのようなイメージをお持ちだろうか。 蒸気機関車、蒸気船・・・産業革命幕開け時代の、無骨な機械群を私は目に浮かべる。 次に、原子力についてはどうだろうか。 原子爆弾、原子力潜水艦、近代的で巨大な原子炉・・・それは現代科学の結晶であると共に、触れてはならない禁断の箱でもあった。 それでは、もし不確定分子モーターが実現できるとしたなら、それは原子力のさらに上を行くものなのだろうか。 不確定分子モーターは、上手くすれば無限のエネルギーを取り出す装置となり得る。 原子力がいかに巨大とはいえ、無限ではない。 この上、人類はさらに巨大なパワーを手にするのだろうか。
恐らくそうはならない。 不確定分子モーターに対して、原爆よりさらに強力な爆弾や、原子炉よりさらにパワフルな発電所を思い描くのは、見当が違っているように思う。 なぜなら、不確定分子モーターには「大集団として平均化すると効率が低下する」という性質があるからだ。 1個1個の不確定分子モーターからは、熱ゆらぎ程度の小さなエネルギーしか取り出すことができない。 たとえ1個1個が小さくとも、一ヶ所に大量に集めれば巨大なエネルギーが取り出せないだろうか。 残念なことに、不確定分子モーターは単純に出力を集めることができない。 ちょうど人が大集団になると一人一人の持つ個性が押しつぶされてしまうのに似て、不確定分子モーターも、単に出力の和をとれば平均化されて不確定な性質が薄れてしまう。 それゆえ不確定分子モーターに「一点集中」は不向きなのである。 確かに不確定分子モーターは無尽蔵、無公害という点で原子力より上なのだが、一点集中型の巨大なパワーという点では原子力には及ばない。 不確定分子モーターのこの性質は、むしろ「地球にやさしい」長所なのではないかと私は思っている。

想像力をたくましくして不確定分子モーターの姿を思い浮かべると、それは巨大な装置ではなく、非常に微細な装置〜マイクロマシン、ナノマシンといった装置の源動力に最適であろうと考えられる。 今日、こういった微細機械はまだ研究の緒についたばかりではあるが、やがて技術の進歩につれ「熱ゆらぎを押え込むのではなく、思い切って利用してみてはどうだろう」という大胆な提言が主流を占める日が来るであろう。 本論で語った不確定分子モーターとは、微細機械の未来像を一足早く先取りしたものである。 今日のテクノロジーで、果たして不確定分子モーターが実現できるかどうかは分からない。 ただ、私の主張が正しかろうと間違っていようと、そう遠くない将来、熱ゆらぎに関する微細機械の研究から不確定分子モーターの真偽が確かめられる日が来ることになる。 少なくともその時まで生きていたい、というのが私の夢である。

20世紀後半は「巨大なシステム、エネルギー集約型の文明」であったと言える。 しかし、肥大しきったシステムは逆に人間を圧迫し、エネルギーの集中投入についても環境から黄色信号が発されつつある。 今後、21世紀に向けて人類は何処に向かうのだろうか。 システムの巨大化、エネルギー集約化、指数的な経済成長はすでに極に達し、今後は「多様化、分散化」した時代が来るであろうと私は考える。 半導体技術による「情報化革命」は産業革命に並ぶほどの歴史的事件だとする見解がある。 「情報化革命」は現在進行中だが、私は現在起こっていることはまだ革命全体のほんの前半部に過ぎないととらえている。 ハードウェアテクノロジーの側面から見たとき、恐らく半導体の次に来るであろうものは、分子、さらには原子配列をも直接操作することができる微細機械テクノロジーであろう。 そして、前世紀、産業革命において蒸気機関が担った役割を果たすのが、不確定分子モーターなのだ。 微細機械の原動力として、不確定分子モーターは最も重要な鍵を握っている。 高度なテクノロジー、分散化、環境との調和・・・不確定分子モーターは来るべき未来社会像を端的に描き出しているのである。

次に来るべき文明の姿は、石炭 -> 石油 -> 原子力といった流れの延長上(例えば核融合といったもの)には来ないであろう。 この流れというのは、より巨大化、より集約化、より中央集権化する流れである。 近代科学の創世以来300年間、人類は確実にこの流れに乗ってきたし、それ相応の勝利も収めてきた。 しかし、21世紀初頭に至って、この流れはそろそろ限界に達したように見える。 まず環境が悲鳴を上げ、次に(まっとうな)人間の精神が悲鳴を上げている。 しかし、この300年培ってきた方法論をおいそれと捨て去るのはなかなか難しい。 それゆえ、今後も今まで300年続いた流れをさらに推し進めようとする動きは続くことだろう。 しかし、もし本当に人間らしい未来を望むのであれば、現在は正に、産業革命に匹敵するほどの大きな意識革命を迫られているときだと思う。 もしこれが為されず、今後も人類がかつての300年間の延長を歩むのだとしたら、あまり明るい未来は望めない。 恐らく未来の目から見返したとき、原子力とは革命以前の最後に栄えた恐竜の姿ということになるだろう。 現代は決して「終焉の時代」ではない。 かつての産業革命の頃と同じ位、エキサイティングで重要な時期なのだ。

さらに、日本人として希望的観測を付け加えるなら、現在の日本がかつてのイギリスの役割を果たす可能性がある。 世界的に見て、民製レベルで半導体文明〜高度な微細加工技術を有する国は非常に限られいる。 また、理系人口とその質を見た場合、日本は潜在的に頭脳大国となれる資格を秘めている。 どの道、この国には頭で生き残る以外の手段はない。 そして微細機械という分野は、恐らく日本の最も得意とする分野ではないか。
しかし、日本国内に目を転じると必ずしも明るい見通しばかりではない。 「理系離れ」という言葉が叫ばれて久しい。 肝心の理系の間でさえ、自分達が本当は貴重なリソースであることの自信と自覚がない。 また、成果主義、効率主義、はたまた金儲けといった目先の利益にとらわれ、より大きな指針を見失っている。 こういった問題は日本国内のローカルな話ではなく、実は世界規模での重大問題なのだと私は思っている。 しかし不思議なことに日本国内で「スケールのでかいこと」を話題にする人が極端に少なくなったように思う。 かつて、明治維新の時、あるいは戦後復興の時、当時の二流国の青年たちが何を話題にしていたのだろうか。 この文章を読んで少しでも奮起してくれる人がいることを期待したい。

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