第一章 なぜ永久機関は実現不可能なのか
エントロピー、分子からの解釈
2006/08/21  

前節で、エネルギーの流れの落ち着く先は、最も確率の高い状態であることを述べた。 確率という考え方は理論上は便利だが、実際に1つ1つの分子の状態の状態に立ち返って場合の数を数え上げることは困難である。 前節で取り上げた単純な気体程度ならまだしも、少し複雑な系、複数の相が混在する場合や化学反応を含む場合などは一筋縄ではゆかないであろう。 我々が直接観測できるのは体積、温度、圧力といったようなマクロな量であって、分子スケールの場合の数は直接見えるわけではない。※
それでは、多少間接的であっても体系の持つ場合の数を知る方法はないものだろうか。 賢明な読者は既にお気づきであろう。 変化の向きを示す指標、エントロピーこそが体系の持つ場合の数を表しているのである。 エントロピーは変化の進行につれて増大する量であり、また、変化は分子スケールの場合の数が大きい(確率の高い)状態に向うので、両者が一致するのは自然なことであろう。 出入りした熱量と温度を調べれば、いちいち分子にまで遡らなくても場合の数を知ることができる。 このことは「熱力学の勝利」と呼べるほど重要な発見だと私は思う。 それでは、熱と温度がどのようにして場合の数と関連付いているのか、以下で調べてみよう。

ここでは最も単純な、分子が1個だけの理想気体についての、次の考察から出発しよう。
「ある部屋の中に1個の気体分子を配置する方法の数は、部屋の広さに比例する」
仮に、ある部屋の中に分子を配置する方法がN通りだとすれば、部屋の大きさを2倍に広げたときの配置方法も2倍の2N通りになる。 次に、部屋を2倍の大きさに広げる為には、気体にどれ程の熱量を加えればよいのかを考えてみる。 ここでは部屋が大きくなっても温度が変わらない、等温過程を基に考えるのが妥当であろう。 (断熱過程では部屋が大きくなったときに温度が下がるので、変化の前後での比較の条件が同等ではない。) 等温過程において、気体の体積がV1からV2まで変化したとき、気体が外部に為す仕事Eは

E = ∫[V1〜V2](P)dV
圧力Pは体積Vの関数で、気体が圧縮されるほど圧力は高くなる。すなわち
P=RT/V (Rは気体定数)
の関係を用いて
E = ∫[V1〜V2](RT/V)dV
   = RT*ln(V2)−RT*ln(V1)
   = RT*ln(V2/V1)
これは分子1モルあたりの仕事である。 分子1個あたりの仕事eは上式のRをアボガドロN0数で割って
 e = (R/N0) T*ln(V2/V1)
   = kT*ln(V2/V1)
(k:ボルツマン定数はRをアボガドロ数N0で割ったもの)
気体を等温過程で膨張させたときには、気体はeに等しいだけの熱量qを外部から吸収している。 例えば気体分子1個のとる場合の数を2倍にするには、熱量q=kT*ln(2)を外部から加えればよいことになる。 上の式から、体系に加える熱量と場合の数の関係が読み取れる。 まず第一に、熱量qは場合の数そのものではなく、場合の数の対数に比例すること。 第二に、熱量qだけでなく温度Tも関係することである。 場合の数をWと置いて、熱に関連する項を左辺に集めると
q/T = k*ln(W)
となる。 左辺のq/Tとは、前に定義したエントロピーそのものである。 実は、エントロピーq/Tというマクロな量は、ミクロに見た場合の数(の対数)を表していたのである。 我々は先に、エネルギーがエントロピーq/Tが増大する向きに流れることを見てきた。 そしてエネルギーの流れが一方通行なのは、場合の数が最も多い状態が最も実現する確率が高いからだという理由を見い出した。 いまここで、なぜエントロピーは増えるのかという理由が明らかになったことと思う。 エントロピーが増えるということは、体系のとり得る場合の数が増えることと同一のことだったのである。 ここで改めて、分子スケールの場合の数からエントロピーSを定義し直すと
S = k*ln(W)
となる。 これが「ボルツマンの関係式」と呼ばれる、ミクロな立場からのエントロピーの定義である。

  

上では部屋の広さ、気体の場合はその体積が体系の取り得る場合の数と比例していることから、エントロピーが場合の数と等価であることを導いた。 確かに、気体の等温膨張については「熱量q → 体積V → 場合の数W」という橋渡しができる。 しかし、世に数ある物体は必ずしも加えた熱量に比例して膨張するとは限らない。 気体の場合であっても、体積が変わらないような堅固な部屋の中に入っていたとしたら、上の論法が成り立っているのかどうか分からない。 体積の膨張がともなわない状況であっても、加えた熱量と場合の数の関係を調べることはできないだろうか。 熱を加えても体積変化が無かった場合、加えた熱エネルギーは対象物を構成する分子の運動エネルギーに転換されている。 加えた熱エネルギーが多ければ多いほど、エネルギーを分子に配分する方法の数も増えるであろう。 つまり体系のとり得る場合の数は、分子が激しく運動しているほど大きくなるという予想が成り立つ。 そこで、実際の空間の広さの代わりに、分子の速度で表される「仮想的な空間」の広さを考えることにする。
「仮想的な空間」とはどのようなものか。 実際の空間の場合、場合の数は多数の分子の位置座標 (X, Y, Z) の配置によって表すことができる。 これと同様に、多数の分子の速度 (Vx, Vy, Vz) の配置によって場合の数を表すことができるであろう。 この、3次元座標上に多数の分子の速度をプロットした仮想的な空間を「速度空間」と呼ぶことにしよう。 体系の持つ場合の数は、実際の空間の広さに比例するのと同様に、速度空間の広さにも比例している。 もし速度空間の体積が、気体の体積と同じように加えた熱量に比例して膨張するのであれば、エントロピーという指標は膨張する気体だけでなく熱運動する分子一般に適用できることになるだろう。 この考えに基づいて、以下、熱を加えたときに速度空間がどのように広がるかを調べることにする。

速度空間の広さを求める際の第一の困難は、境界面があいまいなことである。 実際の空間の広がりが明確な境界面を持つのに対し、速度空間での分子の分布は球状に、外側に行くほど徐々に薄まっている。 このような速度空間上で、分子の分布する「広さ」はどのように計るのだろうか。 球の中心からどれほど離れても薄くなるだけで0にはならないのだから、単純に球の半径を求めるわけにはいかない。 そこで、分子の分布密度が濃い場所ほど大きく、薄い場所ほど小さく見積もって、全空間の濃度を足し合わせた値を分子が動き回ることができる広さと考える。 つまり、分子の分布密度を全空間に渡って積分した値を「広さ」と考えるのである。 分子の分布は球状に広がっているので、直行座標より極座標の方が扱いやすい。 分子の速度、空間上では中心からの距離に対する分布密度はどのようになっているのだろうか。 分子の運動エネルギーは先に示した指数的な分布、ボルツマン分布に従っている。 運動エネルギーは速度の2乗に比例するから、分子の分布Hは

H(v) 比例 Exp( -E ) = Exp( - mv^2 / 2 )
に比例する。 ところで、空間の広さは球の半径の2乗に比例している。 別の言い方をすれば、極座標を直交座標に戻すには、半径の2乗の重みを加える必要がある。 なので、直交座標上での分子の速度分布は、指数関数に2乗の重みを掛け合わせた形となる。
H(v) 比例 v^2 * Exp( - mv^2 / 2 )
これは Maxwellの速度分布と呼ばれている。 安直にボルツマン分布だけを考えたなら、速度が0であるような分子が最も多いことになってしまうのだが、それはおかしな話であろう。 実際には速度が大きい方が球の表面積、つまり動き回れる範囲が広がるので、より多くの場合の数が確保できるのである。 その一方で、全ての分子の持つ運動エネルギーを無尽蔵に増やすこともできない。 結果として、速度分布のグラフはほどよい半径にピークを持つことになる。※

さて、いま調べたかったことは、外部から熱エネルギーを加えたときに、この速度分布がどのように「広がるか」であった。 分布の広がり方を見るために、ただ1個の分子にエネルギーが加わったときの状況を考えてみよう。 速度空間上で、1個の分子が動き回ることのできる範囲は、半径が分子速度であるような球面上である。 このとき1個の分子の持つ空間の広さは、球の表面積と考えればよい。 ここで、分子に外部から熱エネルギーを加えたとすれば、加わったエネルギーは全て運動エネルギーとなるので(そのように単純化した状況を考えているので)、球の半径が増すことになる。 球の半径は分子の速度vに比例する。 エネルギーEは速度vの2乗に比例し、球の表面積Hもまた半径の2乗に比例するから、結局のところ球の表面積はエネルギーEそのものに比例していることになる。

E 比例 v ^ 2
H 比例 v ^ 2
従って H 比例 E
これで、1個の分子については、加えた熱量に比例して速度空間が広がることが確かめられた。

次に、分子の数を増やした場合について速度空間の広がり方を確認したいのだが、実のところ、広がり方の傾向は分子1個のときと同様なのである。 というのは、1個の分子で考えた1つの球面を、複数の分子では多層の、たまねぎのように重なった球面に置き換えるだけだからである。 沢山の分子のボルツマン分布が、全エネルギーによってどのように変化するかを確認しよう。 先に紹介した以下の式から出発する。

B(E1) = Exp( - E1 / E ) * n/E
全エネルギーEが増えると、Expの減衰は小さくなってグラフが横に伸びる一方、全体の高さは低くなる。 気体の分子数は変化しないので、グラフの下の面積は変化しない。(そもそも面積が変化しないように分布を作ったのである。)
積分[E1] B(E1) = const.
速度空間の広さは、球の表面積が半径の2乗に比例することから、上式の分布にv^2 を掛け合わせたものである。
広さ ∝ 積分[E1]{ v^2 * Exp( - E1 / E ) * n/E }
= v^2 * const.
v^2の項は運動エネルギーに比例するので、結局広さは E に比例する。
上式
= E * const.
つまるところ、空間の広さが速度の2乗に比例することから、広さはエネルギーEに比例することが言えるのである。

さて、説明が長くなったが、まとめると次のようになる。

1: 体系に熱エネルギーを加える。
2: 体系の取り得る「広さ」が広がる。
 「広さ」とは、次の2つのいずれかのことを指す。
    a. 実際の空間 = 気体の体積
    b. 仮想的な空間 = 分子速度分布の広がり
3: 「広さ」に比例して、体系の取り得る場合の数が増大する。
こうして、体系の持つ場合の数は、加えた熱エネルギーを積算することによって間接的に知ることができるのである。

実際の空間=気体の体積と、仮想的な空間=分子速度分布の広がりは、相補的な関係にある。 例えば、断熱過程で気体を圧縮すれば、体積が縮んだ分だけ分子の速度が広がる。 逆に分子速度分布の広がりを縮めるには、断熱過程で気体を膨張させる。 膨張にともなって気体の温度が下がるので、分子の速度が落ちて分布の広がりは小さくなる。 つまり、断熱過程において、実際の空間+仮想的な空間を合わせた気体の「仮想的な体積」は変化しないのである。 こうなると、場合の数とは「実際の空間+仮想的な空間を合わせたような、一般的な空間の体積」なのだというアイデアが浮かぶであろう。 このような視点から、エントロピーとは「一般的な空間の体積の対数」である、とするのが最も現代的な定義である。 「一般的な空間」とは何かについては、後の節で改めて述べることにしよう。

物理学の中で、熱や温度に関する分野を熱力学と言う。 蒸気機関が産業に利用されるようになった19世紀、「どうやったら効率のよい蒸気機関ができるだろうか」という研究から熱力学はスタートした。 その後、分子の存在が明らかになると、今度は熱、温度といったマクロな量を分子運動にまで遡って究明しようという研究が為された。 これが統計力学である。 このような歴史の順番があったので、エントロピーには熱力学と統計力学の2つの顔ができたのである。 熱力学と統計力学を対比する以下の様になる。

  [熱力学] [統計力学]
見方: 日常のスケール、マクロ 分子のスケール、ミクロ
扱う量: 熱量、温度、圧力など 分子の位置、運動量
方法: エネルギーの出入りを調べる 場合の数を数える
エントロピー: q/T kln(W)


近年のナノテクの進歩は分子スケールが直接観測できるところまで来ているが、マクロな量の方が観測し易いということに変わりはない。


実のところ、部屋の中の空間が連続ならば分子を配置する方法は無限にあるので、場合の数が考えられるのかどうか少々疑問が残る。 ここでは問題に深入りせず、この主張を前提として認めることにする。 どうしても納得できないのであれば、量子力学を持ち出して、場合の数は物理的に有限になる、ということで満足して頂きたい。


場合によっては、v^2 の項を掛け合わせない Exp( - mv^2 / 2 ) の項だけを Maxwellの速度分布と呼ぶこともある。
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