第一章 なぜ永久機関は実現不可能なのか
エントロピーとは何か(2) 理想気体からの定義
2006/08/16  

最初に、エントロピーSの定義を述べておこう。

対象となる系が状態Aから状態Bに移行したときのエントロピー変化Sは

ΔS = ∫(A→B) dQ / T
で表される。 ここで、Qは系に出入りした熱量、Tは系の温度、積分は系の変化が可逆的であるような準静的過程に沿って行うものとする。 つまり、エントロピーSとは、系に出入りした熱量Qを、その時々の温度Tで割った値を足し合わせたものである。 なぜ、熱量を温度で割った値が「エネルギーが自然に流れる向き」を表すのか、なかなか直感的には把握しずらい。 いかにしてこの「熱量を温度で割る」というアイデアが得られたのか、その筋道をたどってみよう。

もし「エネルギーが自然に流れる向きを表す指標S」があるとれば、前節の「エネルギーの流れの法則」から、Sには次の3つの性質があることが望ましいであろう。

1: 指標Sは、エネルギーが熱に変わるほど大きくなる。
2: 指標Sは、温度差が平均化されるほど大きくなる。
3: 指標Sは、物質が拡散するほど大きくなる。
ここではSが大きくなるほど、変化が進行しているもの考える。 もちろんSが小さくなるほど進行している、としても良かったのだが、これは単に決め事の問題に過ぎない。

まず1:の性質から、Sは熱量Qに関係していると予想が付く。 Sは、熱量Qが増えるほど増加する性質のものだろう。

次に、2:の性質を後回しにして、3:の性質にとりかかろう。 改めて繰り返すが、ここでの目標は次のものだ。
「温度が均一になろうとする傾向と、物質が均等にゆきわたろうとする傾向は類似している。 この2つの傾向をまとめて表せるような指標Sを見い出したい。」
このような指標Sは、熱と、物質の拡散の間の関係を調べることによって見出されるであろう。 どのような物質について調べるかだが、ここでは考え得る限り最も単純な物質、「理想気体」を扱うことにする。 理想気体とは、

ボイルの法則  PV=一定  (温度T一定)
シャルルの法則 V∝T    (圧力P一定)

に従う気体のことである。※ このように仮想的な対象を持ち出したのは、理想気体が最も単純で考慮すべき要素が少ないから、という理由による。※ 最も単純なものは、最も良く本質を表すのである。
さて、気体の熱のやりとりで、まず手掛かりとなるのは次の現象である。
・気体が膨張するときに温度が下がる。
・逆に圧縮すると温度が上がる。
これらの現象は、自転車のタイヤの空気を勢いよく抜いたとき、逆に空気入れで空気を入れるとき、などに体験できるだろう。 それでは、なぜ気体は膨張する際に冷えるのだろうか。 ここで熱力学第一法則、エネルギーは増えも減りもしない、ということを思い起こそう。 気体の温度が下がった分だけ、どこかにエネルギーが流出している。 それは何処か。 エネルギーは、周囲にある約1気圧の空気を押しのけるために使われた、ということだ。 気体が膨張する際には周囲に対して仕事を行う。※ 実のところタイヤの空気をただ抜けるに任せるのはエネルギーとしては勿体ない話で、風車なり適当な仕掛けを用意しておけば相当のエネルギーを回収できるはずなのである。 このことは、逆に空気入れを押し込むと温度が上がることと対にして考えると分かりやすい。 空気入れを押し込むには力が要る。 その力にあてたエネルギーは、最終的には熱に変わる。 逆に、気体が膨らむときには、空気入れを押し込んだのと同じだけの力が返ってくる。※ そして、その返ってきた力の分だけ温度が下がるのである。

ところで、実際の日常で膨張による冷却や、圧縮による加熱の現場を体感することは以外に難しい。 空気入れの例にしても、勢いよく何度も押し込んだ末にやっと温度上昇が感じられる程度であろう。 温度上昇や冷却が体験しずらい理由の1つには、日常の環境は一定温度の空気に取り囲まれているという事情がある。 空気入れをゆっくり押したなら、少し押した分だけ温度が上がる、温度が上がった分の熱が周囲の空気に逃げる、また少し押すと少しだけ温度が上がる、再び熱が周囲に逃げる、を繰り返すことになる。 結果として、空気入れは押し込んでいる間は常に、周囲よりほんの少し高い程度の一定温度となる。 逆に、気体がゆっくりと膨張する際には熱を吸収しながら、周囲よりほんの少し低い程度の一定温度となる。 空気入れを魔法ビンのようなものにでも入れない限り、一定の温度で圧縮、膨張する方が日常的には目にしやすいわけだ。 上のボイルの法則「PV=一定」には(温度T一定)という条件が付いている。 つまり「PV=一定」となるのは、気体が周囲と熱のやりとりをしながら、また、熱のやりとりが十分できる程度にゆっくりと圧縮、膨張したときの話なのである。

以上の様に、気体の圧縮、膨張の過程は大別して2種類ある。 魔法ビンのように周囲と全く熱のやりとりをしない場合、気体は押した分だけ熱くなり、膨らんだ分だけ冷める。 このような過程を「断熱過程」と言う。 一方、周囲と熱のやりとりをしながらゆっくりと圧縮、膨張した場合、気体はボイルの法則「PV=一定」に従う。 このような過程を「等温過程」と言う。 ボイルの法則「PV=一定」をグラフに表すと、良く知られた双曲線となる。 この上に断熱過程のグラフを書き加えると、双曲線より幾分傾きのきつい曲線となる。 なぜなら、断熱過程の圧縮を考えた場合、等温過程より温度が上がった分だけ圧力も等温過程より上がるからである。 摩擦やエネルギー損失が全くない理想的な状況での気体の挙動は、断熱過程か等温過程のどちらかに従っているものと考えられる。 PVグラフの上で考えると、気体の状態を表す点は、断熱過程と等温過程、2種類の曲線群の「レール」の上を走り回っていることになる。※ それでは、PVグラフの上で、外部から気体に加えた仕事W、あるいは気体が外部に為した仕事Wの大きさはどのように表されるのであろうか。 実は、PVグラフ上で気体のたどった経路の下の面積が、仕事Wの大きさを表しているのである。 仕事というのは「力x距離」のことであった。 これは気体で言えば「圧力Px体積V」なので、そのままPVグラフ上の面積となっているわけだ。

さて、ここでの目標であったエントロピーSは、このPVグラフをよくよく眺めることによって見出されるのである。 今ここで考えている2つの傾向、
  ・エネルギーは最後には熱に変わる
  ・物質は拡散する
を気体にあてはめると、
  ・温度Tが上がる
  ・体積Vが増える
となる。 この2つの傾向をPVグラフ上で見ると、おおむねグラフの右上方に向かう傾向であることが分かる。 実際に、元の状態より以上に気体の温度が上がったり、体積が増えたりするのはどのようなときであろうか。 1つは、空気入れの様な装置に摩擦が働き、気体に与えるはずの仕事や、気体から得られるはずの仕事の一部が摩擦熱に転じたときである。 いま1つは、気体が膨張する際にピストンや風車などで仕事を受け止めることをせず、いたずらに気体が漏れるに任せたときである。 このように、何らかのエネルギー損失があったときに、気体は「2種類のレール」から右上側に外れる振る舞いを示す。 気体がちょうど「レール」の上を走るのは、損失が全く無い、最も理想的な場合に限られる。 そして、気体は決して「レール」を反対側に、左下側に外れることはない。 つまり、気体は可逆過程ではレールの上を走り、不可逆過程では右上側にずれてゆく。
ここまで来ると、探していた指標Sがかなり明らかになってくる。 つまり、Sとは気体が「2種類のレール」上を走っているときには本来持っている値より余計に増えることはなく、それよりも右上側に外れた場合には余分に増大するような指標であろう。 温度Tが上がるほど指標Sも大きくなる、ということから単純に推測すると、Sとは熱そのもの、つまり S=(気体が取り入れた熱量Q)ではないかとのアイデアが浮かぶ。 しかし、これでは少々都合が悪い。 問題は「レール」が断熱過程と等温過程の2種類あることだ。 2種類の異なるレールを選ぶことによって、気体が最終的に同一の状態に達した場合であっても、途中で取り入れた熱量Qは異なる値をとる。 そうなると、気体が2種類のレールの上をあちこち動いたときにSの値にずれが生じ、同一の点におけるSの値が一意に定まらなくなってしまう。
ここで、PVグラフ上の2種類のレールによって囲まれたいびつな四辺形の1ユニットに着目してみよう。 気体の圧縮を考えたとき、断熱過程→等温過程という上側ルートと、等温過程→断熱過程という下側ルートの2つが存在する。 上側ルートで気体が外部に対して発熱した熱量Q1は、下側ルートの発熱量Q2より大きくなっている。 それでは、気体がどのように動いても一意となるように指標Sを定めるには、熱量Qをどのように調整すればよいだろうか。 断熱過程は外部とは熱のやりとりを行わないので、関係するのは等温過程だけである。 等温過程の場合、やりとりした熱量Qは、外部から気体に加えた仕事Wに等しい。 仕事Wとは、PVグラフでは等温過程の下の面積であった。 上側ルートと下側ルートで熱量Qが及ぼした値の変化が等しくなるように調整するということは、2つの面積W1とW2の重みが等しくなるような因子を探し出す、ということである。 その答えはPVグラフを見れば、そのまま出ているであろう。 等温過程のグラフの高さ、即ち温度TでWを割ったものである。
かくして、我々は求める指標Sにたどり着いた。 エントロピーSとは、熱量Qを温度Tで割った値のことだ。 このような指標エントロピーSは、気体が2種類のレール上を移動する限り、PVグラフ上のどこへ行っても一意に定まる。※ そして、余計な熱が加わったり、気体から仕事を取り出すことなしに自然に膨張した場合には、確かにエントロピーSの値は元の値よりも増大することになる。 実際に気体が膨張、収縮を行うときには必ずしも「いびつな四辺形ユニット」の辺上を通るとは限らない。 そのような場合であっても、気体の経路を「ごく小さな四辺形ユニットの連なり」と見なせば、エントロピーSの性質はそのまま適用できるのである。 エントロピーの定義で積分が登場するのは、この小さなユニットを経路に沿って足し合わせた、という意味だ。

ここで取り上げた、2種類のレールによって囲まれたいびつな四辺形で表される経路の一巡過程を「カルノーサイクル」と言う。 カルノーサイクルは、理論上最大効率のエンジン(逆に回した場合はヒートポンプ)となっている。 なぜこれが最大効率なのかというと、過程上のエネルギー損失が0だからである。

さて、以上で得られた指標、エントロピーSが、2:の性質 「温度差が平均化されるほど大きくなる」 にもあてはまっていることを確認しよう。 いま、高温の物体Aと低温の物体Bの温度がそれぞれTa、Tb だったとしよう。 AからBにqだけの熱が移って、最終的に両者の温度が等しくなったとする。 このとき物体Aからは熱が出ていったので、エントロピー変化ΔSaはマイナスとなる。

ΔSa=−q/t1
一方物体Bは熱をもらったのでΔSbはプラスとなる。
ΔSb=q/t2
AとBの両方を合わせた全体のエントロピー変化ΔSは、
ΔS = ΔSa+ΔSb = −q/t1+q/t2
ここで全体のエントロピー変化ΔSがプラスになるかマイナスになるか考えてみよう。 物体Aの方が高温ということはt1>t2であるから、分母の小さいプラスが勝って、ΔSは必ずプラスとなる。 仮にΔSがマイナスになることがあるとしたら、それはt1<t2の時だから「熱が低温から高温に移動したとき」に相当するだろう。 エントロピーSがプラスになるとは、要は「熱が高温から低温に移動する」という周知の事実を数式を用いて表現しただけのことに過ぎない。

これで、当初に掲げた3つの性質

1: エネルギーが熱に変わるほど大きくなる。
2: 温度差が平均化されるほど大きくなる。
3: 物質が拡散するほど大きくなる。
を満たす指標エントロピーSが見出されたわけだが、なお幾つかの疑問が残されていることと思う。

疑問1
エネルギー全般の話がいつのまにか理想気体にすり替わっている。
確かに理想気体という特定のケースについて、我々はある指標を見出したのかもしれないが、この指標がもっと他の物質や現象一般にあてはまるという保証が無い。

疑問2
ここで挙げたような気体を圧縮するといった以外の、もっとうまい方法で物質を1つに集めることはできないのだろうか。 もしそんなうまい方法があれば、エントロピーという指標は意味を成さなくなってしまう。

疑問1については、残念ながらこの場で完全に答えることはできない。 完全に答えるためには、最初に理想気体で導入した概念を、その後他の物質や現象にあてはめていったところ確かに成り立つことが分かってきた、という長いストーリーを語らねばならない。 歴史的に見ると、いかにして効率の良い熱機関を作成するかという問題に対するカルノーの考察が最初に登場する。 そして、この考察を受けてクラジウスがエントロピーを提唱したのは150年以上も前のことだ。 この150年の間に、エントロピーは自然科学の至る所に応用され、少しづつその地位を固めていった。 私にはその全てを語ることはできないので、1つだけ、エントロピーという指標は150年以上の間あらゆる現象に対してうまくあてはまってきた、という結果のみをお伝えすることにする。

疑問2について。 例えば部屋全体に散らばったコインを集めるとき、部屋の壁をブルドーザーのように圧縮してコインを集めるだろうか。 普通の人は1つづつコインを拾い集めることだろう。 部屋の壁を圧縮するより1つづつコインを拾った方がトータルの労力は小さい。 これと同じように、気体の分子を1つ1つ拾い集めることはできないだろうか。 もし、コインと同じように分子1つ1つに対する特別な操作が可能であれば、エントロピーの概念は全く成り立たなくなる。 このような疑問を明確に打ち出したのが冒頭で掲げた「Maxwellの悪魔」である。 Maxwellの悪魔は本論を通じての主役なので、改めて次の節でご登場願おう。


現実の気体はボイル−シャルルの法則と完全には一致しないが、気体が十分に希薄になれば不一致は無視できる程小さくなる。


仮想的な「理想気体」より、実際の水の蒸発や結晶の融解の方がより現実的だと思われるかもしれない。 しかし、水の蒸発1つとっても、水自体の物性、空気の湿度や性質など、考慮すべき要素はたくさんあって話が複雑になる。 物理学では、まず単純な理想化した状況下で本質を探り、そこで得られた本質を現実の複雑な問題に適用する、という方法を採るのである。 そして、この方法は熱力学という学問ではたいへん上手くいっている。


ただし、周囲に何も無い状態、つまり真空に対しては全く仕事をせずに膨張するだけである。 これを自由膨張と言う。


返ってくる力が押し込んだ力と全く同じになるのは、行きと全く逆の経路をたどった場合の話である。 空気を入れた後、周囲の温度と同じになるまで冷ました後に膨張させると、返ってくる力は押し込んだときよりも小さくなる。 この、冷ますという過程が入ってしまうと行きと帰りは全く同じにはならない。


断熱過程と等温過程の過程の複合的な状況もあるだろう。 例えば、気体を圧縮した仕事のうち50%が気体の温度を上げ、50%が周囲に逃げていく、といった場合である。 このときは、非常に細かい断熱過程と等温過程を50%ずつ、交互に繰り返しているととらえることができるだろう。


エントロピーSのように、複数の変数(例えばP、V)のグラフ上をどのように移動しても一意に定まる値のことを「全微分可能である」と言う。 全微分可能とは、言うなれば「一周して元に戻ったとき、上りと下りが等しくなる」ことである。 坂の上り下りは全微分可能。 向かい風、追い風は(風が渦巻いていることがあるので)全微分可能ではない。


熱の移動に関する上記の説明には少々荒削りなところがある。 熱が出入りすれば物体の温度t1、t2は変わるはずなのに、上記説明では温度変化が考慮されていない。 温度変化を考慮に入れたときの計算は次のようになる。
物体A、Bが熱をやりとりして、最終的に両方の温度がt0に落ち着いたとしよう。 まず物体Aについて考えよう。 物体Aの温度taは、最初t1から出発する。 Aからほんのわずかの熱量dqが出ていくと、Aの温度taはほんの少しだけ下がる。 次にまた熱量dqが出ると、taもまたほんの少し下がる。 dqが出る、taが下がる、を繰り返して最後には温度t0まで下がる。 ここで各々の繰り返しについてのdq/taを全部足し合わせれば、t1からt0までのトータルのエントロピー変化ΔSaが求められる。 この細かく足し合わせる操作は、数学では積分に相当する。 物体Aのエントロピー変化は
ΔSa = ∫[t1〜t0](dq/T)dT
となる。
それではA,B合わせた全体のエントロピー変化ΔSを求めてみよう。
ΔS = ΔSa+ΔSb
   = ∫[t1〜t0](dq/T)dT
     +∫[t2〜t0](dq/T)dT
熱量の変化dqは温度の関数と考えられる。 簡単のため物体A、Bの比熱を一定値Cとすれば dq=C*dT となる。 これを用いて
ΔS = ∫[t1〜t0](C/T)dT +∫[t2〜t0](C/T)dT
   = C*ln(t0/t1) +C*ln(t0/t2)
   = C*ln(t0^2/t1*t2)
ここで t0^2 と t1*t2 の大きさを比べると、より均一な温度になっている t0^2 の方が、温度差のある t1*t2 よりも値が大きくなることに気付くだろう。 (t0^2/t1*t2)>1 だから、結局 ΔS>0 となる。
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