第五章 第二法則との調和
未到達領域
2006/08/28  

いまだ平衡状態に達していない系には、大別して2種類ある。

1:まだ平衡に至っていない緩和過程
2:壁で仕切られていて平衡に達しない系
平衡から遠ざかった状態を作り出すにも、やはり2つの方法がある。
1:エネルギーの高低差や物質の濃度差などによって流れを作り出す
2:系の状態に応じて仕切の出し入れを行う
1:の方法は自明であろう。 対して2:の方法で平衡から遠ざかった状態が作り出せるというのは少々意外かもしれない。
1:の方法で流れを保つためには、着目している系が外部に対して開かれており、エネルギーや物質の流出入が不可欠である。
実は2:の方法でも同様に、着目している系の外部に、平衡に達していないもう1つの別の系の存在が不可欠なのである。
1:の方法では外部の系とエネルギーや物質をやりとりする。
2:の方法でも、もう1つの系と何らかの相互作用を及ぼし合う。
何らかの相互作用といっても、それはエネルギーでもなければ物質でも情報でもない。 系が持つ情報に依存した、ある種の相互作用をやりとりするのである。 より具体的には、一方の系が特定の状態となったとき、他方の系に対して仕切を入れるといった操作を行う。 他方の系に対してスイッチのON、OFFを行う、と言えば分かりやすいかもしれない。 つまり2:の方法とは、仕切の出し入れという操作を通じて外部の系が持つ情報を取り込むことなのである。 1:の方法がありふれた現象であるのに対し、2:の方法は多分に恣意的で、実例を目にすることもほとんど無い。 それゆえ2:の方法がどことなく非現実的に思えるのも無理からぬ話であろう。 本当に2:の方法は成立し得るのだろうか。 真偽の程を確かめるため、ここでは2:の方法に固有のある重要な性質に着目する。 その性質とは、2:の方法によって平衡状態から遠ざかっている系には必ず「未到達領域」がある、ということだ。

「未到達領域」とは何であろうか。 それは、仕切の壁などの束縛条件によって実現が妨げられている系の状態のことを指す。 (未到達領域という用語は一般的ではなく、本論だけの特別な言い回し) 例えば、仕切によって左右2つの部屋に分割された空間において、右の部屋だけに気体分子が入っている状況を想定したとする。 このとき、仕切を外すまでは実際には起こり得ない、左の部屋に気体分子が入った状態が未到達領域である。 仕切を外して左右両方の部屋に気体分子が入れば、未到達領域は消滅する。 仕切を外す前の、まだ未到達領域が残っている状態を、比喩的な言い方で「生きた」状態と呼ぶことにしよう。 仕切を外して、未到達領域が無くなった状態を「死んだ」状態と呼ぶことにする。 また、仕切を外す以前に系が取り得ていた状態を「到達領域」と言うことにしよう。 今の例では、右の部屋に気体分子が入っている状態が「到達領域」である。 つまり、

(仕切を外し終えた後の系が取り得る全領域)=(到達領域)U(未到達領域)
である。 これは仕切の壁というものの性質からして自明であろう。

未到達領域という考え方を念頭に置いて、前節で述べた「1個の分子を領域Aに長く留め置く仕組み」を再考してみよう。 ここで考えた仕組み全体、対象系とコントロール系を合わせた全ては平衡状態にはない。 ちょうど仕切の壁に押さえつけられているように、どこかに未到達領域を残しているのである。 それはどこか。 前節の仕組みは、

・コントロール系が領域Sにあるとき、対象系は領域Aにない。
・コントロール系が領域Lにあるとき、対象系は領域Aにある。
という組み合わせで動いていた。 この組み合わせで動作している状態が、いま実現している状態、すなわち到達領域である。 ということは、この逆の組み合わせ、
・コントロール系が領域Sにあるとき、対象系は領域Aにある。
・コントロール系が領域Lにあるとき、対象系は領域Aにない。
これが未到達領域ということになる。 この未到達領域である反対の組み合わせを行った場合、系の挙動はどうなるだろうか。 前節の結果とは逆に、対象系が領域Aに留まっている時間は平衡状態よりも短くなることだろう。 領域Aは長い時間壁に囲まれており、その中に分子が入り込めるチャンスは少なくなるからである。

ここで改めて

(全領域)=(到達領域)U(未到達領域)
という関係を思い起こそう。 いま、ある仕組みによって分子が領域Aに長く留まっていたのだとすると、その反対の仕組みによって分子が領域Aに留まる時間は逆に短くなる。 そして、到達領域の仕組みによって長くなった分は、未到達領域の仕組みによって短くなった分とちょうど打ち消し合って、両者の平均は平衡状態の平均と一致する。 つまり、両者は相補的な関係にある。 前節の仕組みによって、分子が領域Aに平衡状態よりも長く留まっていたのだとしよう。 ここで、何かのはずみでコントロール系のLとSの領域の組み合わせが逆転したとすると、今度は分子が領域Aに留まる時間は平衡状態よりも短くなる。 さらにここで再びLとSの領域の組み合わせが逆転したならば、分子が領域Aに留まる時間も元に戻る。 もし、L、S領域の組み合わせ逆転が頻繁に、50%、50% の確率で生じたとすれば、系は平均して熱平衡と同じ分布に至ることになる。 こうなると、ここで考えている系では何が「仕切の壁」に相当するのかが明らかになる。 L、S領域の組み合わせの逆転が、ちょうど「仕切の壁」を越えることに相当する。 例えばタイミングのずれによって分子を取りこぼした場合、対象系の分子が領域Aから抜け出したにも関わらず、コントロール系が状態Lになった場合などが「仕切の壁」を越えたことになるわけだ。 これは仕切の密閉が完全ではなく、隙間や穴から気体分子が漏れてしまった様なものである。

以上の様に未到達領域という観点からすれば、前節の仕組みも決して不自然ではないことが理解できるであろう。 仕切の出し入れによって系を平衡から遠ざける方法とは、本質的には仕切の壁によって気体分子を1つの領域に押し込めておくのと同じなのである。 なので、この方法では必ずどこかに「未到達領域」がある。 気体分子を1つの領域内に押し込めれば、それ以外の領域には気体は到達しなくなる。 未到達領域とは、この気体が到達しなくなっている領域のことである。 現在到達している領域と、未到達領域を合わせれば、全領域が平衡状態になっているのと同じになる。 系の状態が平衡から外れているのであれば、どこかに「仕切の壁」に相当するものがある。 その壁を越えると系は平衡状態となり、「死んで」しまう。 平衡から外れた「生きている」系の本質は、仕切の壁で押さえられているということだったのである。

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