第五章 第二法則との調和
分子モーターの初源情報
2006/08/28  

改めて不確定分子モーターの検討に戻ろう。 分子モーターに何が非対称性をもたらしているのか、これまでの考察を元に、その理由を探ってみよう。

ここで扱う分子モーターのモデルとして、第2章で述べた「悪魔の装置第一号」を取り上げる。 悪魔の装置第一号とは次の様なものであった。

・熱運動する1個の分子が特定の小領域に入ったら、その直後にピストンを動かして気体分子から仕事を取り出す。
・ピストンを動かしているのは、閉じた経路内を行き来する信号、模式的には1個の運動するボールである。
 閉じた経路とボールは外界と熱的には接触しておらず、単に「仕切の出入操作」を行う。
悪魔の装置第一号は、前の節で考えた「コントロール系」「対象系」といった仕組みによく似ている。 経路と信号は「コントロール系」を成しており、熱運動している分子は「対象系」であろう。 仕切の出し入れによって熱平衡から離れている系は、どこかに未到達領域を持っているはずであった。 未到達領域とは、簡単に言えば「仕切の壁」の向こう側にあって系が到達できない領域のことである。 それに対して、壁のこちら側、系が実際に取り得る状態のことを到達領域と呼んでいた。 この、未到達領域、到達領域という考え方を非対称性を持つ系にあてはめるとどうなるか。 例えば今、ある系が全体として右回りの性質を有していたとすれば、実際に起こっている右回りの状態が到達領域、実際に起こっていない左回りの状態が未到達領域ということになる。 不確定分子モーターにおいても、もし右回りの流れが生じていたならば、その反対に左回りの流れを生じる状態がきっとあるに違いない。 しかし、その左回りの状態は「仕切の壁」にさえぎられて実現してはいないのだろう。 つまり「左回りの未到達領域」と「仕切の壁」を明らかにすることが、分子モーターに非対称性をもたらすメカニズムを理解するための最大の鍵なのである。

それでは、悪魔の装置第一号でどのようにすれば反対向きの流れが生じるのだろうか。 悪魔の装置第一号では、気体分子がピストンを押すことによって仕事を成していた。 反対向きの流れを生じさせるには、ピストンを引く形にすればよいはずだ。 つまり、気体分子がピストンの壁の反対側に入って、逆向きにピストンを押している状態が「未到達領域」に相当する。 ではその未到達な状態になったら、気体分子がピストンの反対側に入ったら何が起こるだろうか。 まず考えられるのは、ピストンを逆向きに押し切ったところで装置は停止するということだろう。 ただ、このままではピストンの左側と右側での挙動が対称になっていない。 左側の場合には最後まで押し切った後にピストンが移動して次のサイクルに入るのに対し、右側では最後まで押し切って変化が終わっている。 この左右の違いが非対称性の起源なのだと言えなくもないが、なぜ非対称性が生じたのかについてまだ明らかではない。 そこでもう少し装置を拡張して、右側と左側でできるだけ対称性を保つ様にしてみよう。

・分子がピストンの左側にあった場合:
分子はピストンを右に向かって押す。
ピストンの壁が右端(に近い領域)に達し、かつ分子が左側に寄っていたとき、コントロール系はピストンの壁を初期状態の中央付近に持ってくる。

・分子がピストンの右側にあった場合:
分子はピストンを左に向かって押す。
ピストンの壁が左端(に近い領域)に達し、かつ分子が右側に寄っていたとき、コントロール系はピストンの壁を初期状態の中央付近に持ってくる。

このように左右両側の動作が対称になって初めて、なぜ分子モーターが一方向だけに動作し得るのかが明らかになる。 不確定分子モーターとは、元来左右どちらの方向にも動作し得る双方向のものだったのである。 ただ、右回りに動作している分子モーターがあった場合、分子がピストンの壁をすり抜けない限り方向を左向きに反転させるチャンスがない。 そのためにいつまでも右回りを維持し続けていたのである。
最も簡単な非対称系である「一方向に回り続ける車輪」を思い起こそう。 車輪自体は非対称な構造を持ち合わせてはいない。 ある車輪が右回りなのは、たまたま最初に右回りだったからに過ぎない。 不確定分子モーターの持つ非対称性もつまるところ初期の状態、最初に分子をピストンのどちら側に置くかによって生じる。 実際に一方向にだけ動作する分子モーターであれば片側の仕組みだけで十分であり、反対側の仕組みは省略できる。 ただ理屈の上で左右両側の仕組みを想定すれば、非対称性は装置の構造によって生じるのではなく、初期情報によってもたらされていることが確認できるのである。

不確定分子モーターは無から非対称性を生み出しているわけではない。 最初に分子モーターを作る際に、左右1bitだけの情報を持ち合わせていたのである。 分子モーターは最初に持ち合わせていた1bitの情報を熱揺らぎで失うことなく、コントロール系に保持し続ける。 そしてコントロール系から外界に対して仕切の出入りという影響を及ぼすことによって、外界に1bitだけの流れを作り出すのである。 仮に何かの拍子に気体分子がピストンの壁の向こう側に入り込んだとすると、理屈の上では分子モーターの挙動は逆向きになる。 これまで右回りだった車輪がクルリと反転して左回りに転じたようなものだ。 この反転が頻繁に起こる様であれば、平均して分子モーターは一方向の流れを生じることができない。 気体分子が反対側にはみ出すことは、即ち初期に持ってた1bitの情報を失うことを意味する。 この1bitの初期情報は、いわば分子モーターの「命」なのである。 命を失った分子モーターは死んでしまう。 分子モーターを生かしているのは、一般的な非平衡系で見られるような外界からのエネルギー流ではない。 当初よりかたくなに維持し続けてきた、ただ1bitの情報だったのだ。 不確定分子モーターという仕組みを考える上で、この最初に与えられた1bitの情報は重要な意味を持つ。 この初期情報のことを、本論では特に
  「初源情報」
と呼ぶことにしよう。

悪魔の装置第一号の仕組みを詳細に考えてみると、どうしても完全にはなり得ない。 何処かに気体分子が「逃げ出してしまう」可能性、抜け穴が残ってしまう。 (実は、第一章の説明ではこの辺りを曖昧にした。注意深い読者には猜疑の種を残したかもしれない。) 例えばピストンの移動が遅れてもたもたしているうちに分子が反対側に逃げ出してしまう、といった状況である。 似たような状況は、先の節で取り上げた「平衡から遠ざかるためのコントロール系と対象系」の仕組みについても起こり得る。 仕切がの壁が降りる前に、分子が領域Aから逃げ出してしまうといった状況が想定できるだろう。 こういった「不都合な状況」は、系の大きさを変えたり、信号の速度を調整するなどの小手先の工夫によって極限まで減らすことはできる。 しかし完全に無くすことはできない。 なぜだろうか。 悪魔の装置やコントロール系といった概念が不完全だからだろうか。 思案の末私は、こういった抜け穴は些末的な問題ではなく、原理的に必ず生じるのだということに気付いた。 つまり、平衡から外れた系には必ず「未到達領域」が存在する、というアイデアに至ったのである。 到達領域と未到達領域の間は「仕切の壁」によって隔てられている。 そして、実際のところ仕切の壁の高さが無限になることはあり得ない。 それはちょうど、いかに高いポテンシャル障壁と言えども現実的には有限の高さしか持ち得ないことに似ている。 ということは、分子モーターが永久に動作し続けることは現実的にはあり得ないことになる。 運悪く初源情報を失った時点で、不確定分子モーターは活動を停止し、「死んで」しまうのである。

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