第五章 第二法則との調和
もう一つの非平衡
2006/08/28  

不確定分子モーターの挙動について、温度差、非対称性といった観点から吟味し、最終的に我々は「系が熱平衡に達しているか否か」という点に立ち戻ってきた。 熱平衡状態とは、当然のことながら何ものも生まない。 不確定分子モーターが動作している状態とは、少なくとも熱平衡から1bit離れた状態でなければならない。 熱平衡から離れた状態はいかにして実現できるのだろうか。 この点について深く考えてみたい。

平衡状態とは、マクロに見て何の変化も見られない静止した状態のことを指す。 平衡の反対は非平衡である。 非平衡状態とは、静止していない状態のこと。 エネルギーの高低差や物質の濃度差などがあり、それらによって引き起こされる「流れのある状態」のことを指す。 食べ、呼吸し、排泄する、生きとし生ける生物は全て非平衡系である。 太陽から恵みの光を受け、夜空に赤外線を廃棄する地球も1つの大きな非平衡系だ。 平衡状態とは、もはやそれ以上何の変化も見られない、いわば「死んだ」状態である。 対して、流れのある非平衡状態は、食物や太陽といった供給源によって「生かされて」いるのである。 熱統計力学という学問の興味が非平衡系に向かうのは自然なことであろう。 この自然な成り行き故に、エネルギーの高低差以外にもう一つ、系を平衡状態から遠ざける方法があるということについて、これまでほとんど取り上げられることがなかったように思う。

系を平衡状態から遠ざけるもう1つの方法とは何か。 それは系を「壁で仕切ること」である。 詳しく言えば、束縛条件によって系の状態を制限することである。 もちろん、単に壁を差し込むだけで平衡状態からずれが生じるという訳ではない。 静止した気体に仕切を入れたところで、それ以上何も変化は起こらない。 「壁で仕切ること」によって系を平衡状態から遠ざけるためには、それなりの前提条件が必要なのである。 その条件が何であるかについては前節に少しだけヒントを示しておいたのだが、はっきりした答は以下で明らかにしよう。

壁で仕切ることによって達せられる非平衡状態とはどのようなものか。 例えば、高圧の気体が入った部屋と真空の部屋が1枚の壁で仕切られた状態を想定してみよう。 仕切の壁を外せば、気体は真空の部屋に流れ込み、最後には2つの部屋は等しい圧力の気体で満たされるであろう。 2つの部屋が等圧となった最後の状態が平衡状態である。 対して、まだ壁で隔てられて圧力が等しくなっていない状態は、一種の「非平衡状態」であると言える。 この非平衡状態は外部からの働きかけやエネルギー勾配によって形作られた類のものではない。 単に壁で押さえているだけである。 あまりにも自明なので、こういった壁で押さえている状態のことを通常は「非平衡」などと呼ばないし、それ以上特別な注意を払うことも少ない。 しかし、壁で閉じこめられた気体は確かに熱平衡から遠ざかった状態にある。

次に、壁で仕切る操作によって平衡状態から遠ざかった状態を作り出すことができないものか、考えてみよう。 例えば、ただ1分子から成る気体が入った部屋を、壁によって複数個の小さな部屋に切り分けたとしたらどうだろうか。 気体分子は小部屋のうちのどれか1つに入るのだから、当初平衡状態にあった気体は高圧の小部屋と真空に切り分けられたことになる。 ただし、この細かく仕切られた状態を熱平衡から遠ざかっていると言えるかどうかは微妙だ。 分子はどの小部屋に入ったのか不明であるし、仕切りの操作を何度も繰り返せば、どの小部屋に入る確率も等しくなるからである。 ここで、平衡状態の意味をミクロな視点から考え直してみよう。 系が平衡状態にあるとは即ち、分子がどの小部屋にも等しい確率で入るということである。 長時間に渡って分子の挙動を観察したとき、ある小部屋の中に分子が入っている時間が、他の(大きさの同じ)小部屋に入っている時間とゆらぎの範囲内で等しくなっていれば、系は平衡状態にあるのだと言える。 もしある1つの小部屋の中に、他の小部屋よりも十分長い時間分子が留まっていたとしたら、その系は平衡状態に無いと言えるだろう。 そこで、壁で仕切る操作によって分子を1つの小部屋に長く留めておく方法を考えてみることにしよう。

基本的なアイデアは、ある特定の小部屋に分子が入ったら、それをできるだけ長く押さえつけておくというものだ。 問題は誰が分子を押さえつけるのかということなのだが、それは特定の観測者や知的生命体に委ねるのではなく、機械的な物理系に委ねるものとする。 つまりここでは2つの系を問題の対象として取り上げる。 1つの系は、いま平衡状態から遠ざけようとしている分子1個だけの系。 もう1つの系は、その1個の分子の挙動を外部からコントロールするための系である。 2つの系に名前を付けた方が便利なので、前者を「対象系」、後者を「コントロール系」と呼ぶことにしよう。 対象系とコントロール系の間には、エネルギーの流れも無ければ物質の流れも無い。 あるのはただ「壁で仕切る」という操作だけである。 より詳しく述べると、
「対象系、あるいはコントロール系が特定の状態Aになったら、それに対応する特定の仕切によって系内が分断される。 対象系、あるいはコントロール系がA以外の状態(Aの補集合)になったら、対応する仕切は取り払われ、系に対する制限は無くなる。」
系の状態に応じて仕切が入ったり取り払われたりする仕組みは、対象系、コントロール系間のエネルギーの流れを必要としない。 また、仕切の出し入れに(原理的には)余分なエネルギーを消費することもない。 (仕切の出し入れという道具立ては、第2章、第3章で述べた悪魔の装置に用いたゲート、ハンドルといったものと同じだ。) 以上の仕組みがあれば、対象系の分子を1カ所に長く留めておくこと、つまり対象系を平衡状態から遠ざけておくことができるのである。

いま、対象系には熱運動する分子が1個だけ入っているものとする。 1個の分子は対象系内を自由に、くまなく巡っており、ある瞬間にどこにあるのか予測がつかない。 一方、コントロール系にも1個だけ運動する分子が入っているものとする。 ただしこちらの方の分子の運動は既知であり、初期状態でどこにあるのか明確にわかっている。 コントロール系は仕切によって2つの部分に分かれているものとする。 2つの部分をそれぞれL、Sとする。 Lは非常に大きく、Sは小さい。(LargeとSmall) 初期状態で、コントロール系の分子はSに入っている。 対象系の中の、ある特定の小領域をAとしよう。 対象系の分子が小領域Aに入ると、コントロール系のLとSの間にあった仕切が外れるものとする。 すると、コントロール系のSに入っていた分子はSから出て行って領域Lに入る。 コントロール系の分子が領域Lに入ると、対象系の小領域Aの回りに仕切が入って、Aは分断されるものとしよう。 このとき、Aに入っていた分子はそのままA内に閉じこめられることになる。 ここで領域Lが非常に大きいものであったなら、コントロール系の分子がLを巡回して再びSに戻ってくるまで、対象系の分子はAに閉じこめられたままとなる。 つまり、Lを十分大きくとれば、分子がAに留まる時間はいくらでも長くすることができる。 コントロール系の分子が再びSに戻ってくれば、対象系の分子をAに閉じこめていた仕切が外れて、対象系の分子はAの外に出ることになる。 このときコントロール系の分子は再びSに戻り、初期の状態と同じになる。 以上により、仕切の出入りによって対象系の分子をいくらでも長く小領域Aに閉じこめておけることが分かるであろう。

この仕組みで問題となるのは、分子の運動には有限の時間がかかるので、若干の時間のずれが生じる点であろう。

1:対象系の分子がAに入ってから、コントロール系の分子がLに入るまでの間に時間がかかる。
  その間に対象系の分子がAから出て行ってしまうかもしれない。
2:コントロール系の分子がSに入ってから、対象系の分子がAを出て行くまでの間に時間がかかる。
  その間にコントロール系の分子が再びLに入ってしまうかもしれない。
対象系の分子をAに長く留めておくという目的からすれば、1:の場合は問題になるが、2:の場合は問題にならない。 そこで、
・コントロール系Sの大きさを非常に小さくとる。
・Aの形状と大きさを工夫して、対象系の分子がAを通過する時間が、コントロール系の分子がSを一巡する時間よりも大きくなるようにする。
・Aの外周を囲う仕切の大きさにゆとりを持たせて、領域Aよりも少し大きめに取る。
といった措置によって時間のずれの問題は回避できる。

以上の仕組み全体を改めて見直してみよう。 考えている系全体=対象系+コントロール系は、平衡状態に達しているわけではない。 対象系だけを見れば平衡状態に近いが、コントロール系内部の分子運動は既知であり、平衡状態からはほど遠い。 対象系とコントロール系は、互いに「仕切」という操作によって影響を及ぼしあっているが、互いにエネルギーをやりとりしてはいない。 この点が重要だ。 2つの系は熱的に接しているわけではない。 なのでコントロール系は、未知の分子運動を含む対象系に影響をあたえつつも、自分自身は未知の運動にかき乱されないまま「コントロールを保って」いられるのである。 つまり、コントロール系は熱源に接しておらず、対象系と熱平衡には無いのだ。 それゆえ、コントロール系が初期に持っていた情報は攪乱されずに、いつまでも保持し続けることができるのである。
コントロール系と相互に影響し合うことによって、対象系は熱平衡から遠ざかることができた。 なぜ熱平衡から遠ざかることができたのか、その源泉はコントロール系が有していた初期情報にあることに気付く。 コントロール系が保持し続けている情報を「分けてもらう」ことによって、対象系は熱平衡から外れることができたのである。 上の装置では、コントロール系の持つ情報量は ln ( S / (S+L)) であった。 この情報量の分だけ、対象系は平衡状態から外れることができるのである。
それでは、系全体=対象系+コントロール系を考えたとき、平衡系がコントロール系から分けてもらった情報の分だけ、系全体の情報は増えているのだろうか。 そうではない。 実は、情報を分けてもらおうがもらうまいが、系全体としての情報量は全く変化していないのである。 簡単のため、コントロール系と影響を及ぼし合う以前の対象系、つまり情報を「分けてもらう」以前の対象系の持つ情報量が0であったとしよう。 一方、コントロール系の持つ情報量がIであったとする。 2つの系の間に仕切を通じて影響を及ぼし合う仕組みを作れば、対象系は平衡状態から外れることができるので情報量Iを有することになる。 しかし、このときコントロール系+対象系の全情報量は2Iにはならない。 なぜなら、コントロール系と対象系は完全に連動しており、どちらか一方の状態を見れば他方の状態を言い当てることができる。 従って両方の系を合わせた情報量は、やはりIのままなのである。 情報を「分けてもらう」と言うより、同じ情報を「共有する」と言った方が適切であろう。 一方、情報量ではなくエントロピー、即ち系が取り得る場合の数という側面から見るとどうなるだろうか。 たとえ対象系がいくらかの情報を共有したとしても、全体としての場合の数は減りようがない。 上の例で考えても、確かに対象系の分子が動き回れる空間の広さそのものは減少していない。 ただ、分子が特定の場所に留まる時間の長さを変えることによって、長時間平均において平衡状態とは異なった分布を実現しているのである。 仕切の操作によって全体のエントロピーが変化していないのは間違いない。 では、対象系のみのエントロピーはどうなるか。 対象系は平衡状態と異なる分布を示すのだから、エントロピーは減少しているのだろうか。 これは紛らわしい問題ではあるが、対象系のみに限ってもエントロピーは変化していないというのが正解であろう。 熱量の出入が無く、体積変化も無い対象系でエントロピーが変化するとは考え難いからである。 なので、この対象系は平衡状態とは異なった分布を持ちながらもエントロピーは平衡状態と同じといった特殊な状態にあることになる。
このように考えてみると、仕切によって影響を及ぼし合う仕組みは何ら実質的な物理量を移動していないことがわかる。 エネルギーも、物質も、情報量さえも移動してはいない。 情報を移動しているのではなく、単にコントロール系の持つ情報が対象系に影響を及ぼしているに過ぎない。

熱平衡に置かれた対象系は、適切な初期情報を有する他の系と相互作用することによって、熱平衡から外れた分布を有することができる。

1:まず、熱に攪乱されない初期情報Iを有する系がある。
  この系のことを「コントロール系」と呼ぶことにする。
2:一方、未知の運動を含む、平衡状態に置かれた系がある。
  この系のことを「対象系」と呼ぶことにする。
3:コントロール系と対象系の間の状態を連動させることによって、2つの系で情報を共有することができる。
  その結果、全く情報を有していなかった対象系から見ればコントロール系から情報を分け与えられたように見える。
4:2つの系がいかなる方法で連動するのかといえば、互いに「仕切を入れる」という操作によってである。
  仕切を入れるとは「一方の系が特定の状態になったら、他方の系の内部を分断する」という操作のことである。
5:対象系のみに着目したとき、対象系は情報量Iだけ平衡状態から外れることができる。
  ただし、全体として情報量が増えたわけではない。
  なぜなら、対象系とコントロール系は連動しているため、全体の場合の数が減ったことにはならないからである。

仕切を入れるという操作によって、エネルギーもエントロピーも変化することなしに、長時間平均における分布のみを変えることができるのである。

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