第三章 可逆コンピュータからの発想
CoffeeBreak 〜 未来予知について
2007/03/01  

未来予知というのは興味深いトピックなので、ここに少々の蛇足を付け足そう。
この節は本論に直接関係のない脱線なので、読み飛ばしてもかまわない。

古典力学の頃ならいざ知らず、今日では計算によって未来が完全に予言できると信じている人はあまりいないであろう。 そう聞いて何となく安心感を覚える方も多いのではないだろうか。 現代社会とは、全てがスケジュール通りに動き、またそうなる様にあらゆる努力が為されている所である。 しかし、その中を生きる一人の人間としては、やはり未来は決定されていない方がいい。 10年後、20年後の未来が計算でピタリと当てられてしまっては、夢も可能性もないではないか。 しかし、未来予知が不可能ということは、ある意味で科学の敗北であるとも言える。 (実用に役立つ)科学というものは、未知なる結果を予言するために存在するのだから。 以下に挙げる「未来予知ができない理由」は、そのまま”科学の限界点”を示している。 むろん、限界があるからといって、即「科学は無用の長物」だとはならない。 何事にも適応範囲というものがある。 科学とて万能ではない。 限界を知ることによって、逆に力量を正しく評価できるのではないだろうか。


* 未来予知ができない理由

   1: この世のあらゆる情報を集めることは不可能

これまで本論で中心的に語ってきたことである。 情報を得るには、その対価としてエネルギーの散逸がともなう。 情報と利用可能なエネルギーは等しい価値を持つ。 それ故に、第二種永久機関は実現できない。


   2: 不確定性原理による決定論的な記述の限界

ある種の物理量は、複数同時に、正確に測定することはできない。 物体の位置と運動量は、同時に正確には定まらない。 同様に、時間とエネルギーも同時に正確には定まらない。 確かに不確定性原理にはパラドキシカルな一面がある。 位置や運動量などの物理量は、「本当に実在として」正確な値を有していないのだろうか。 それとも単に観測者が知り得ないだけで、「本当は」正確な、決定的な値があるのだろうか。 観測値の解釈は、現代においてもしばし頭を悩ませる。 ただ、少なくとも現在の我々は、正確な値を得るための物理的な手段を持ち合わせていない。 それ故、我々にとって正確な観測値は存在せず、観測値に基づく正確な未来の予言も存在しない。

   3: 個々に単純なルールでも、組み合わせることによって思わぬ複雑さを生み出す

現象を記述する法則がわかったからといって、現象そのものが完全に解けたことにはならない。 囲碁のルールを覚えるのは簡単だが、誰もが囲碁の名人になれるわけではない。 物理におけるルール、法則は、主に微分方程式で記述される。 微分方程式で記述できれば、それは即ちルールを記述したのと同じことだ。 いったん方程式ができあがってしまえば、後はルールに従って操作を施すだけで良い。 つまり微分方程式を解けば良い。 ところが、実際には解けない微分方程式がある。 と言うよりむしろ解ける方程式が特別なのであって、現実には解けないものの方が圧倒的に多い。 記述されたルールは単純かつ明確であっても、その結果は複雑で予想が付かない。 こういった現象を、しばし「決定論的カオス」と言う。 自然は個々の要素の単純な(線形な)重ね合わせではない。


   4: 予言者自身を含んだ世界の未来は1つに収束しない

仮に、未来を予言できるスーパーコンピューターがあったとしよう。 あなたはこのコンピューターに向かって「明日の自分自身の行動」を予言してもらったとしよう。 「あなたは明日8:00に起床して、朝食にトーストを紅茶を食べ、いつものように通勤電車に乗って、会社では制作中のプログラムの続きを・・・」という結果が得られたとする。 この予言結果を見て、あなたはどう思うだろうか。 ここで少々あまのじゃくな精神を持った人ならば「機械の言うなりになってたまるか。確かに明日はトーストにしようと考えていたが、ここは変更しておにぎりにしよう」などと考えるのではなかろうか。 そう考えたとたん、カタカタとコンピューターが動き出し「訂正:明日はおにぎりにしようと考えている」という答が吐き出される。 あなたは内心ぎくりとしながらも「やっぱり明日はコーンフレークだ!」と考え直すだろう。 すると、再びコンピューターが動き出し「訂正:やっぱり明日はコーンフレーク」と表示される。 ここであなたは怒って机をたたき「いったい何が本当の答なんだ、もう訂正は効かないぞ、最終的な回答を出してみろ!」とコンピューターに要求する。 すると・・・コンピューターは沈黙するはずだ!(壊れるかもしれない)

この話を聞いて「やはり人間様は計算機を超えるすごい存在なんだ」と感じたであろうか。 私はそうは思わない。 答が出せない理由は「人間の自由意志」ではないからだ。 常に命令に背くという行為は、常に命令に従うのと同じくらい決定的な行動だ。 人間でなくとも、常に命令と反対の動作を行う「あまのじゃくロボット」で事足りる。 人間の意志でないとすれば、一体何が予言を妨げているのだろうか。 それは「コンピューター自身の出した答えが、未来に影響を与えてしまう」からだ。 コンピューターが人間(あるいはあまのじゃくロボット)に未来を語った瞬間に、未来は変わってしまう。 どれほどコンピューターが優れていようとも、自分自身の出した影響を再び自分自身に組み込んで、1つの確定した答を出すことはできない。 フィードバックを組み込んだ制御系が発散することがあるのと同じ理由で、予言者自身を組み込んだ世界の未来は1つに収束しない。

ひょっとすると沈黙したコンピューターは、内心「あなたは私が黙ったのをよいことに、通常通りトーストを食べる」などと考えるかもしれない。 だが、残念なことにその答を世界に出すことができないのである。 出せば、その答の影響を受けて未来が変化してしまう。 答の出せない予言、というのはもはや予言としての意味を為さない。
あるクレタ人が「クレタ人は嘘つきである」と言ったなら、この言葉は果たして嘘だろうか、本当だろうか。 このお話は、予言者が避けて通ることのできないパラドックスだと思う。


   5: この世界こそが最速の計算機である

たとえば、投げたボールがどのように飛んでゆくか正確に知りたかったとしよう。 最もシンプルな方法は、ボールを質点と見なして、初速と角度から飛跡を計算することだ。 これは簡単な方法だが、空気抵抗の影響を無視している。 次に、空気抵抗を考慮してそのような項を付け足そう。 答は前よりは幾分正確になるが、これではボールにカーブがかかっていることまではわからない。 ボールの大きさ、回転、表面のでこぼこ等も重要だ。 これらを含めると相当大掛かりな計算となるが、より正確な答が得られるだろう。 これで厳密に正確な答かというと、さにあらず。 地球の自転が影響しているかもしれない。 風が吹いているかもしれない。 究極的には、ボールの通る道筋の、空気分子1個1個の衝突が影響を与えているはずだ。 ここまで来ると、計算機によって答を得ようとする努力をあきらめざるを得ない。 計算するよりも、実際にボールを投げてみた方がはるかに早く答に達することだろう。

ここから先は予想に過ぎないのだが、もし現実世界を寸分違わずシミュレートできる計算機があったとしても、その計算機が答を出す速度は現実世界を上回ることはできないのではないか。 この考えに根拠は無い。 あるとすれば「きっと自然というものは無駄なことははしていないだろう」という思い込みだけである。 計算結果というものは正確であるに越したことはない。 が、いかにわずかの手間で、早く答を得るかということもまた重要だ。 もし計算の方が実験より膨大な手間がかかると言うのであれば、計算という操作は無意味だ。 考えてみれば、ボールを1つの点と見なすなどというのは「現実」を無視した大胆な切り捨てであろう。 だからといって「点という概念は間違っている」とか「不正確で話にならない」ということにはならない。 ここまで思い切って簡略化したおかげで、最もわずかの手間と時間で答に達することが可能となったのだから。 これほど切り捨てたにも関わらず割と正確な答が導き出せるということは、「質点の概念」が優れた思考方法だという証だ。

そもそも科学の本質は「思考の経済」にある。 事実を簡略化した分だけ頭にかかる負担が軽くなり、それだけ遠くに飛べる様になる。 それでは、少しも簡略化することなしに、ありのままの現実をそっくりそのまま受け入れることはできないのか。 これは科学の限界、というより人間の認知能力の限界であろう。 私たちは物を見て、考えはじめた瞬間に、現実の一部を切り取っている。 余計な物を切り捨てているからこそ本質が浮き彫りにされるのだ。 残念なことに、この切り取り操作がある限り、この世の全てをカバーした真理には到達できない。 これが科学の限界であり、人の限界だとも思うのである。

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