第三章 可逆コンピュータからの発想
未来予知と悪魔の関係
2006/08/23  

「エネルギーを取り出す時刻を不確定とすれば、マックスウェルの悪魔は実現可能」
これが本論の主張である。 なぜ時刻が不確定であればエネルギーを取り出すことができるのか。 その意味がいまひとつつかみ取れない、あるいはどことなく話が上手すぎるように思える、そんな方々も多いことと思う。 ここでは時刻不確定の意味を明らかにするため、コンピュータによる未来予知についての話題を取り上げる。 時刻不確定なマックスウェルの悪魔がたとえ存在したとしても、コンピュータによる完全な未来予知を行うことはできない。 このことは悪魔がエントロピー増大則を犯していないことと同義であり、それゆえに悪魔の存在が許されているのである。

今日、コンピュータは様々な局面で未来予測に役立っている。 例えば天気予報には大がかりなシミュレーションを行うスーパーコンピュータが導入されている。 コンピュータが1つの答をはじき出したとき、それまで全く予測のつかなかった未来に一縷の手掛かりを与える。 もちろん天気予報がしばし外れるように、コンピュータの答とて間違うこともある。 しかしそれは、コンピュータ予測という方法自体が間違っていたというより、データが不完全である場合が多いであろう。 もし金と労力に糸目を付けず超高性能なコンピュータを作成し、徹底的にプログラムのバグを排除し、細大漏らさず完全なデータを与えたとしたら、コンピュータの答は神託の重みを持った予言となるのではないか。 残念ながら今日の見解では、いかに優れたコンピュータを作ろうとも完全な未来予知は不可能だと言われている。 その理由は主に2つある。

1:非常に小さな世界では、物体の位置と運動量を同時に正確な数字で表すことができない(不確定性原理という)。
2:未来を知る為には現在の世界についての情報の全てを細大もらさずinputしなければならず、それは原理的に不可能。
(第1章13節、ラプラスの悪魔を参照)
ここでは理由1:には深入りせず、理由2:について考えることにする。

未来のできごとについて、コンピュータが1つの答を導き出すためには必ずある程度のエネルギー消費をともなう。 ただしこのエネルギー消費は、コンピュータの演算だけではなくデータ入手の過程、つまり測定の過程まで含んでの話である。 可逆コンピュータの節で見たように、純粋な演算だけであればエネルギー消費は限りなくゼロに近づけることができる。 しかし、対象の測定までをも含む全過程においては、エネルギー消費を避けることができない。 実際にエネルギー消費の過程がどこで生じるかは、具体的なコンピュータの設計に依存する。 測定の段階か、個々の演算の段階か、最後のメモリー消去の段階なのか、いずれにせよどこかの段階で必ずエネルギーを消費することになる。 もしコンピュータがYes/Noの2択に対して答を導き出したなら、そこに要する必要最小限のエネルギーは1bit相当=kT*ln(2)となる。 仮に求める答が 3.1415926 だったとして、これを 0.0000000から 99.9999999 の範囲から選択するものであったなら、kT*ln(1000000000 )だけのエネルギー消費が必要とされる。 このようにコンピュータによって得られた情報とは、エネルギーと引き換えにもたらされたものなのである。 ところで、このkT*ln(N)というエネルギーを熱・統計力学の観点から解釈するとどうなるか。 これだけの大きさのエネルギーを理想気体が熱として受け取った場合、気体分子の持つ「場合の数」はN通りだけ増大する。 コンピュータがN通りの未来の中の1つを選び取るには、その代償として他の何物か、例えば気体分子などの場合の数がN通りだけ増大するのである。 ここにシンプルで美しい法則がある。 (コンピュータ+気体分子)全体の場合の数は、常にN通り以上となる。 このN通りという数は決して減らすことができないので、どれほどコンピュータを駆使しようとも世界全体の未来予知はできないのである。 「場合の数は決して減らすことができない」これがエントロピー増大則と呼ばれるものの本質である。

ところで、私はこれまでに「時刻を不確定とすれば、マックスウェルの悪魔は実現可能」という話をしてきた。 この悪魔の方法を用いれば、コンピュータのエネルギー消費を限りなくゼロ近くに抑えつつ、答を導き出すことができるのだ。 コンピュータから答が出る時刻をずらせば、一見不可能に見えたエネルギーゼロの要求を満たすことができる。 例えば、もしコンピュータにYes/Noの2択の問題を解かせるならば、Yesの答が出るのを1秒後に、Noの答が出るのを2秒後に仕掛けておく。 そのような「答によって処理時間の長さが異なるプログラム」を、あらかじめコンピュータに組み込んでおくのである。 我々がコンピュータの答を得たとき、その答によって未来の持つ可能性はYes/Noの2通りから1通りに絞られる。 しかしそれと同時に、答自体がはじき出された時刻が異なるため、未来の持つ可能性は2通りに広がる。 もし我々がコンピュータの答に従って何らかの行動を起こすのだとすれば、1秒後に行動を起こす場合と、2秒後に行動を起こす場合では異なる未来が待っているはずだ。 結局のところ(Yes:1秒後)と(No:2秒後)の2通りという場合の数は、全過程において変わってはいない。 計算時間が予想不能なコンピュータであれば、その計算時間によって未来が変わってしまうので、未来の持つ可能性の幅を減らすことができないのである。 それゆえに、計算時間が予想不能なコンピュータはエネルギーの消費なしに作動することが物理的に許される。 計算時間が確定しているコンピュータであれば、こうはならない。 もし計算時間が決まっているコンピュータが未来についての答を次々とはじき出していったなら、未来の持つ可能性の幅はどんどん減少することになる。 そのようなコンピュータが完全な未来予知を行わないように、物理法則はエネルギーという制約を課したのである。 つまり、神は未来予知の能力をコンピュータから奪っておいたのだ。 逆に言えば、どれほど演算を行っても未来予知に到達しないような「不完全な」コンピュータであれば、その存在は神から許される。 計算時間が予測できない「いいかげんな」コンピュータとは、そういった「許された存在」なのである。

それでは、もし我々が正確な時計を持ち、答が出た時刻が何時何分であったか正確に記録しながら、時刻不確定なコンピュータを使い続けたらどうなるだろうか。 つまり、未来に関する答はコンピュータから得つつ、時刻に関する情報の不備は時計によって補えば、完全な未来予知ができるのではないか。 残念ながらそうはならない。 なぜなら時刻を測定する過程、つまり時計にエネルギーを消費するからである。 「時刻不確定なコンピュータ+時計」は、「計算時間が確定しているコンピュータ」と同じ意味を持つ。 どこかにエネルギーの消費が発生するので、完全な未来予知には至らない。 つまり、時計によって得られるはずの情報を捨てることによって、その分だけのエネルギーが稼ぎ出せるのである。 類似のアイデアで、答が確定するまで待ってはどうかという疑問もあるだろう。 上の例では3秒後まで待ってから次の行動を開始すれば、時刻不確定といった性質はなくなるのではないか。 ところが、この場合もエネルギー消費は避けられない。 1秒後に出た答を2秒待つのと、2秒後に出た答を1秒待つのとは、相異なる2つの行動である。 この2つの行動を1つに「合流」しようとすれば、どうしてもそこに1bit相当のエネルギーの消費が避けられない。

ラプラスの悪魔は存在することが許されないが、マックスウェルの悪魔は存在することが許される。 (はじめに、悪魔兄弟の違い参照) マックスウェルの悪魔は、時刻不確定の贖罪を以て熱力学の神から許されているのである。

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