第一章 なぜ永久機関は実現不可能なのか
なぜエントロピーは増えるのか
2006/08/21  

古典力学の法則から、我々の持つ知識の幅、即ち位相空間上の特定の領域の広さは一定であることが示された。 これが先に述べたリュービルの定理であった。 一方、位相空間上の領域の広さの対数をとったものはエントロピーそのものであることも分かった。 ここで1つ大きな疑問にぶつかる。
  なぜエントロピーは増えるのか。
古典力学の法則に忠実に考えるなら、エントロピー増大則ではなく、エントロピー保存則となるはずではないか。 もともとエントロピーとは「物理的な変化が自然な向きに進行するほど増大する指標」であった。 分子運動などの理屈を持ち出さずに、熱のやりとりという事実のみを見れば、エントロピーは確かに増大する。 しかし古典力学から導かれる帰結は、位相空間上の領域の広さは変わらないということであった。 つまりエントロピーは増えも減りもしないということになってしまう。 この、古典力学とエントロピー増大則とのギャップはどのようにして埋めればよいのだろうか。

この問題の根は深い。 「決定論的な時間」の節でも述べたように、理想的な古典力学が適用できる世界、一個一個の分子運動の世界では、時間の向きにさしたる意味は無い。 言い換えれば、時間の流れる向きを反転させても矛盾は生じない。 そして、そのような古典力学から導かれた帰結にも、時間の流れる向きは含まれていない。 しかし我々にとって時間が過去から未来へと一方向に流れるのは動かしがたい事実である。 一体なぜ、時間は一方向に流れるのだろうか。 なぜエントロピーは増えるのか、という問いかけは、時間の本質に関わる半ば哲学的な問題にまで遡るのである。 実のところ、この問題は非常に難しく、現在でも完全には解決されていない。 そもそも完全に解決できる類の問題であるかどうかさえ、わからない。 ここでは、まず今日の一般的な見解に触れ、次に私独自の見解を述べよう。

   1:一般的な見解 「領域が複雑きわまりない形になる」

確かに位相空間上の領域の体積は変化しないのだが、時間の経過につれて、領域の形状は複雑な形に変化してゆく。 領域は、あたかもアメーバの偽足の様に伸縮し、空間の広い範囲に渡って薄く、広く、広がってゆくのである。 十分な時間が経過すれば、当初の領域の「偽足」は空間内のほとんど全ての部分に伸びてゆくことだろう。 この様子を模式的に表せば、材料を混ぜ合わせてパイをこねる過程に例えられる。 小麦粉とバターの混合物をたたいて引き伸ばし、十分伸びたところで半分に折りたたむ。 この過程を繰り返せば、どこを切っても十分細かく小麦粉とバターが入り交じった混合物が出来上がる。 バターが全体に行き渡ったからと言って、決してバターの量が増えた訳ではない。 位相空間の場合もパイこねの例のように、領域は外部の空間と「入り交じる」のである。 領域の体積自体が膨らむ訳ではない。 位相空間はパイこねのように引き伸ばされる訳ではないが、一定の規則的なルールを繰り返した結果、予測不能な状態に達する、という過程は類似しているであろう。

パイこねの場合、出来上がったパイ生地を拡大してみると、小麦粉とバターの層が細かく交互に積み重なったものとなっている。 これは、当初の「小麦粉の上にバターが乗っていた」という構造が、最終的な生成物の中に形を変えて残っているのだと見なすことができる。 仮にパイ生地の層の厚さが1マイクロメートルでバターが全体の10%を占めていたとすれば、0.0〜0.1マイクロメートルの所にバターがあり、残りの0.9マイクロメートルには小麦粉がある、といった事柄を言い当てることができる。 領域の広さを「我々の持つ知識の幅」ととらえるなら、構造が残っているということは、我々の持つ知識=情報も失なわれてはいないということだ。 位相空間上の運動、例えば気体分子の運動などについても、一見入り交じったかのように見える結果のどこかに当初持っていた構造が残っているのではないだろうか。 さらに想像を広げれば、残った構造を上手く利用して当初の状態を再現する、つまり時間を逆行することができるかもしれない。 パイこねの例であれば、1マイクロメートルごとに薄いバターの膜を集めれば、当初に加えたバターが回収できるではないか。 確かに理屈の上ではそういった構造が何処かにあって、我々の持つ知識は(観測者が十分に賢ければ)失われることは無いと言えるかもしれない。 しかし、問題となるのは、そのような構造が我々にとって分りやすく、有用な形で取り出せるかどうかである。 パイこねの場合であれば「層が積み重なっている」といった比較的簡単な規則で表現できた。 しかし、10の何十乗といった分子数の運動についての構造は一言で表現し得ぬ程に複雑で、たとえあったとしても有用でないことは十分予想がつく。 構造を示すのに、より単純な言葉や数式を用いることができず、そのもの自体を以て示さねばならないのであれば、それは有用な知識とは言えない。 残念なことに、一般的な多体運動をより単純な数式に還元できないことが、近年(といってももう数十年以上経つが)分かってきたのである。 もう1点、微細な構造はごく小さな値の変化によって大きく様相を変えてしまうことも指摘できる。 パイこねであれば、0.1マイクロメートル以上の誤差が生じたらバターの回収はできない。 分子運動の場合、状況はもっと悪く、当初のほんのわずかな誤差が後の結果を大きく非連続的に変えてしまうことがある。 もし、当初の状況をほんのわずかだけずらしたときに、結果もわずかだけしか変化しないのであれば、当初の精度を上げてゆくことによって、結果の精度を順次上げてゆけるという希望がある。 しかし、現実はその希望を許さない。

一個一個の分子運動を見ても時間の向きは分からない。 それらが集団となって初めて「分布」という概念が生じる。 そして時間の向きは、分布の形に刻まれてゆく。 分布が複雑きわまりない混合形態を経て、最後にはもはや互いに区別が付かないような一群の形態に変化してゆく過程が一方向きなのである。

ここで挙げた分子運動のように、

・変化のルール自体は規則的で、比較的単純
・しかし、その結果は予想も付かない程に複雑
・当初の状況をほんのわずかにずらしても、結果の様相が大きく変化する
といった過程を「カオス」と言う。 この「カオス」という言葉自体は非常に有名になった感があるが、その明確な意味は言葉通り掴み所が無いものと私には感じられる。


   2:本論独自の見解 「時間に依存する知識が失われる」

本論では、時間の流れに向きがあるのは、我々の持つ知識、情報が失われてゆくからだ、という立場を取る。 対象となる系自体は、個々の分子であれ、集団であれ、古典力学が示すように本来可逆なものと考える。 つまり、時間の流れとは我々が観る対象にあるのではなく、対象を観る我々の側にある。 我々は明確な形で情報を捨てている、捨てざるを得ないようなメカニズムがある、と私は考えている。 この考え方を、以下に説明しよう。

まず、観測者が分子の位置について何かを知っているような状況を想定しよう。 気体が部屋の中の一部に封じ込められているならば、位相空間における範囲も一部に限定される。 ここで気体を閉じ込めていた封印を解くと、気体は部屋一杯に広がるわけだが、このことは位相空間上ではどのように表されるのであろうか。 実際の気体と同様に、狭い一部の範囲から広い範囲へと広がるはずだ。 最初に気体がX方向に圧縮されていたなら、位相空間上でもX方向の位置に関する範囲は小さく圧縮されている。 次に、気体をX方向に閉じ込めていた仕切を外せば、気体分子はX方向についてより自由に運動できるのだから、当然位相空間のX位置に関する範囲も広くなる。 ここで「位相空間上での体積一定」を信じるならば、Xが広くなった分だけどこかがへこまなければならない。 しかし、ただ気体が拡散しただけなら、他の方向、YやZが縮むわけでもない。 一体どこがへこむのだろうか。 話を単純化して、部屋の中に分子が1個だけある場合を考えよう。 最初、部屋は中央で仕切られており、分子は右の部屋の中を跳ね回っているとする。 仮に、分子が仕切から反対側の壁まで往復するのに1秒かかるとしよう。 仕切を外すと分子は部屋の端から端まで2秒かかることになる。 さて、ここに仕切を外した後の部屋の写真があって、分子が部屋の右側を右に向かって飛んでいるところが写っていたとする。 この写真は仕切を外してから何秒後に撮ったものだろうか。 答えは「偶数秒後」である。 仕切を外してから1秒後にこうなることはあり得ない。 この写真の状況は0、2、4、8・・・秒後にしか起こり得ないのだ。 なぜ起こらないと分かるのか、それは最初に分子が右側にあったことを知っていたからである。 最初に持っていた「右側」という知識は、仕切をとった後では「偶数秒」に変わったわけだ。 分子が沢山ある場合も1個のときと同じように、部屋中を行き交う分子の写真が何秒後に撮影したものであるか、時間の範囲をある程度絞ることができるはずだ。 最初に分子が空間的に部屋の1/2の範囲にあることがわかっていたなら、仕切をとった後は時間的に1/2の範囲に絞ることができる。 正確に辿ってゆけば、この「1/2」という知識の量は変化しない。 位相空間上で見れば、やはり領域の体積は一定なのである。 しかし、仕切をとる前後で位相空間の様子はかなり違っている。 仕切をとる前の知識には時間に依存する要素が入っておらず、位相空間上の領域は定常的に静止したままであった。 仕切をとった後の知識は時間に依存し、位相空間上の領域は自分自身の2倍の大きさの範囲を一定周期で動き回っている。

ここで翻って、エントロピーという指標が何であったかを思い起こしてみよう。 そもそもエントロピーとは状態量、対象となる系の状態に対して一意に定まる量であった。 系が定常的であったならエントロピーの値も一定であり、時間に依存して動き回ったりはしない。 エントロピーを考えるときには「時間と共に変化する」といった要素はバッサリ切り捨てて、位相空間上の領域は定常的なものとして扱わねばならない。 今考えている例では、エントロピーの基準を「当初と同体積の動き回る領域」とするわけにはいかないということだ。 それでは時間と共に動き回る領域をどう扱うのかというと、領域が動き回る範囲全部を合わせて大きな領域を作って、この大きな領域を元々の動き回る領域の代わりに用いるのである。 つまり、領域がどこに動いても充分カバーできるような広い領域を再設定するのである。 今の例では「当初の2倍の大きさの定常的な領域」が基準となる。 実際、「分子が偶数秒後に右側に来る」などという知識はあまり役立ちそうにもない。 それよりは「仕切をとったら体積が2倍に広がる」という方が素直だろう。 さて、以上の過程において何処で位相空間が広がったのか、知識が切り捨てられたのかは明らかであろう。 それは、時間に依存する知識を切り捨てて、領域を広く再設定した段階である。 かくして知識は減り、領域は広がる。 これが「エントロピー増大」の理由である。

上では簡単な分子1個の例を挙げたので、時間に依存する知識は「偶数秒後」といった簡単な言葉にまとめることができた。 これが多数の分子の運動となれば、とても一言では表せない複雑なものとなるだろう。 それでも、ある一枚の分子運動の写真を見せられたときに、それが何秒後に実現可能で、何秒後にはあり得ないものであるかどうか、理屈の上では言い当てることができるはずだ。 もちろん、実際に時間帯を言い当てるには、常人を遙かにしのぐような記憶力と演算能力が必要となるだろう。 しかし、とにかく当初に与えられた情報を最大限に生かせば、分子の写真が何秒後のものであるかを調べる手掛かりは残されていることになる。 この分子運動に残された「手掛かり」を我々が実際に使おうとしないのは、仮に使ったとしても労力の割に得られるものがあまりにも少ないからであって、調べる手段そのものが消滅したわけではない。 調べる手段が消滅するのは、我々が手掛かりそのものを破棄したときだ。 知識を破棄する過程に対して初めて、破棄する以前、破棄した以後、という前後関係が生じるのである。 このあたりに我々が「時の流れ」を感じる理由があるのだと、私は考えている。

位相空間という道具立てによって、古典力学の考え方がエントロピーとどのように結びついているのかを見てきた。 古典力学の考え方とは、決定論,因果律,答えは一つ、といった類のものである。 古典力学においては、時間とは単なるパラメーターに過ぎなかった。 これに比してエントロピーの考え方は、純粋な古典力学よりも幾分現実的なものなのである。 エントロピー流の考え方(熱統計力学)では、初期に持っていた情報は失われてゆくものであり、時間は過去から未来に一方通行に流れてゆくものである。 古典力学とエントロピー流の考え方になぜこんなギャップがあるかというと、根本の原因は「人間の認識能力の限界」にあるのだと私は考えている。※ 厳密な古典力学だけなら、あるいは人間もスーパーコンピューターも超越するような演算能力の持ち主なら、「知識は一定」であり「位相空間上の体積は保存する(増大しない)」と言えるかもしれない。 そういった超越者にとっては過去と未来の全てがお見通しで、エントロピー増大という概念もなくなることだろう。 エントロピーというのはもう少し現実的な指標で、時間の要素を含まない状態量である。 箱の中に(マクロに見て)静止した気体が入っていたなら、いつ見てもエントロピーは同じ値をとる。 1秒後にいくつで3秒後にしかじか、といったような変動はしない。 古典力学とエントロピー、この二者の間には時間に依存する知識を切り捨てる操作が加わっている。 あまりにも複雑で、役に立ちそうもない知識は捨ててしまおうということなのである。 人間の扱える情報量には限りがある。 我々は、粒子1つ1つ残らず調べるという方法は断念して、もう少し現実的な、全体の流れを追う方法を採らざるを得ない。 こうして「全体の流れを追う」方法で作られたのが熱統計力学なのである。 熱統計力学は最初から個々の分子の情報を切り捨てる方針で組み立てられている。 切り捨てなければ膨大な数の粒子から成る対象を扱うことは不可能であるし、我々にとって有用な結果は個々の粒子の振る舞いではなく、「全体の流れ」にある。 エントロピーという指標には「観測者の知識」とか「実際役に立つ」といった人間臭い要素が盛り込まれているものと私は思う。

※ そうではない、という意見も多い。
時間の流れる向きとは人間が居ようが居まいが、そんなことに関係なく自然界そのものに組み込まれたものであると。 しかし、私は時の流れとは人間の様な観測者から観て初めて生じるものだという立場をとる。 この論争は語れども尽きないので、興味深い問題提起を1つ。
もし「完璧に、何1つ忘れない人」がいたとしたら、その人にとって「過去」はあるのだろうか。 何1つ失っていないのなら、その人にとっての過去は現在と同じ重みを持つ実在なのではないか。 なぜなら、過去が「完全」に再現できるからである。 さらに、この人がラプラスの悪魔の様に完全な未来予測ができるとしたら、もはやこの人にとって過去・現在・未来の様相は意味を為さない。 過去は忘れるが故に過去であり、未来は未知なるが故に未来である。 過去と未来が全て確定している人にとって、時間とは空間的配置と同様、1つの静物に過ぎないであろう。
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