第七章 ダーウィンの忘れ物
撞球の一撃
2006/08/29  

生命は何処から来たのか、そして、何処へ行くのか。 生命における最大の難問は遠い過去と未来にある。 遠い過去からの生命の足跡をたどると、そこに1つの方向性を見る。 複雑化、組織化、高度化。 だが改めて生命の目指す高みとは何なのか、高い、低いの基準は何かと問われれば、明確な答は誰も持ち合わせてはいないだろう。 ただ漠然と、言葉にはならぬが否定しがたい力強さを以て、生命の潮流を感じ取るのみである。

人工知能、人工生命、そして生命と進化の解明。 こういった試みの最終的な目標は、生命そのものを創り出すことだろう。 つまり神になることだ。 いつの日かコンピュータの中で、あるいはフラスコの中で、人の手による創造物が動き出す日が来るのではないか。 そういった遠い夢を糧に、果て無き試行錯誤が続けられている。 今日のデジタルコンピュータの進歩には著しいものがあるが、それでも人工生命には程遠い感がある。 一体何が足りないのだろうか。 かつて人工知能を創ろうとしたとき、結局のところ問題は小さな論理だけの世界では完結しなかった。 問題はより大きな枠組みへと発展し、人工知能を得るならまず人工生命を射よ、となった。 これと同様のステップが、おそらくもう一段階必要となるのではないか。 人工生命を得るには、結局のところ「人工宇宙」までをも創らねばなるまい。 生命は一部の楽観的な想像よりも遙かに遠いところにある。 パソコン程度のプログラムでお手軽にデジタル生命ができるなどといった考えは、全くの思い上がりに過ぎない。

遙か遠いところにあることは承知の上で、人工生命の一段階先にある人工宇宙について想像を巡らせてみたい。 人工生命の考え方は、知能のあり方について1つの視点を提供した。 知能とは、意図的に精巧にプログラミングされたものではなく、むしろ単純な構成要素から創発されたのだという視点である。 それでは、人工宇宙の考え方は、生命の在り方について何を教えるのだろうか。 それを言葉にするのは難しいが、およそ次のようなことだと思う。

「生命の向かうところは、宇宙全体の流れによって与えられる。」
無から有は生じない。 全く方向性を持たない乱数の中から、自発的に確固たる潮流が生じるとは、私にはどうも信じられない。 進化のシミュレーションを繰り返せば結局のところ思い至ることになるであろう。 生命の持つ方向性は、生命を取り巻くより大きな何物かが与えたのだ、ということに。 「より大きな何物か」が神様でないのだとすれば、改めて生命を取り巻く地球、そして宇宙に目を向けることになるだろう。

宇宙全体によって与えられる流れとは何か。 今日最も幅広く受け容れられている科学的な説明によれば、宇宙全体の流れとは即ちエントロピー増大の傾向ということだ。 多数の気体分子を部屋の片隅に集めた状態からスタートすれば、分子はやがて部屋全体に一様に拡散してゆく。 そこには何か特別な意志や強制力が働いているわけではない。 分子が一カ所に集中している状態より、部屋全体に分散している状態の方が圧倒的に取り得る場合の数が大きい。 つまり実現する確率が高い。 それゆえ一カ所に集中した状態から全体に分散した状態への移行は、最も高い確率で自然に起こる。 1つの部屋で起こったことは、原理的には宇宙全体にもあてはまる。 気体分子が拡散するように、宇宙も最初は一部に偏在した状態からスタートし、現在は均一化に向かう途中の姿だと見なすことができる。 種々の観測結果と相対論の帰結から、宇宙は非常に小さな領域からスタートし、今なお膨張を続けていることが知られている。 単純に解釈すると「宇宙がスタートしたときにはエントロピーが極めて小さかった」と言いたいところだが、この点において部屋と宇宙には相違がある。 「生まれたばかり」の宇宙は何の構造も情報も有してはいない。 もし宇宙が定常的なものだったなら話はそこでおしまい〜銀河も星々も我々自身も生まれなかったことになるのだが、幸いなことにその後の宇宙は猛烈な勢いで膨張を遂げた。 宇宙が膨張すると、そこに新らしい「エントロピーの捨て場」が作られる。 新たな「エントロピーの捨て場」が時と共に作られてゆくので、そこに新たな情報と構造が生まれる余地が生じたのである。 「エントロピーの捨て場」というと難しいもののような気がするが、これが実際何に相当するかというと「夜空が暗い」という事実に他ならない。 「オルバースのパラドックス」というお話をご存じだろうか。 もし宇宙が無限に続いていて、無限に星があるとすれば、宇宙のどの方向を見ても星が見えるはずだ。 つまり夜空が暗くなることなどあり得ないではないか、という指摘である。 仮に宇宙が気体の入った部屋のようなもので、かつ既に拡散し終えた状態、つまり熱平衡状態にあるのだとすれば、全天がほぼ一様の輻射で満たされることになる。 実際に夜空が暗いのだから、宇宙は気体の入った部屋のようなものではないか、又はまだ拡散し切っていない状態であるはずだ。 我々が地球上で生を受けていられるのは、昼の太陽から光のエネルギーを受け、使い終えたエネルギーを夜空に放出しているからである。 このエネルギーの流れを支えているのは、最終的には膨張し続ける宇宙全体なのである。 宇宙の膨張が続く限り、エネルギーの流れが止むことはなく、新たな情報が生じる余地も拡大し続ける。 たとえ太陽が燃え尽きたとしても、宇宙の彼方では常に温度差が生じるので、全ての活動が停止することにはならない。 つまり宇宙の熱的死には疑問符が付くことになる。 遠い未来についての悲観はおそらく杞憂であろう。 生物進化の源泉は、つきつめれば宇宙全体の進化に負っているわけだ。

それでは、何らかの形でエネルギーの流れさえあれば、生命は必然的に生じるのであろうか。 昼に太陽が照らし、夜の暗闇が癒やせば、生命は自ずと生じてくるのだろうか。 大規模なエネルギー散逸が起これば、そこに自ずと構造が生じる、そう考える人もいる。 散逸に伴う構造とは、言うなれば流れに生じた渦のようなものだ。 水が高きから低きへと流れ落ちるとき、自然な状態であればほとんど必ず、渦や淀み、波しぶきなどが生じる。 実際の川面をつぶさに観察すれば、流れは驚くほど表情豊かであることに気付くであろう。 生命とは、流れに生じた渦と本質的に変わらないのではないか。 しかし、ことはそう単純ではないと私は思う。 ここにおいても渦は渦でしかなく、生命の持つほんの一面を表しているに過ぎない。 非常に大きな川を何億年も流し続けたところで、その中に「生きている、意識を持った渦」が生じるというのは望みが薄いように思える。 空を見上げれば、そこには多種多様な雲が浮かんで見えることだろう。 雲の形、気流の流れなど、お天気というものは単純な線形方程式では解けない大規模複雑なシステムである。 太古の昔から現在に至るまで、地球を取り巻く大気には生命を発生させたのと同程度のエネルギーの流れが生じていたはずだ。 ならば、なぜ空には自己複製する「生きた雲」が無いのだろうか。 躍動する雲と生命の間には共通点も見られるが、それ以上に異なる点の方が多いであろう。

生命とは、限定的に定義された以外の何物かである、という皮相的な見解がある。 コンピュータ上に形造られた動的なコードが生命だと主張すれば、必ずやそうではないという批判が起こる。 エネルギーの流れに生じる散逸構造だと主張すれば、それも違うだろうという反対意見が巻き起こる。 この調子で、何らかの定義づけが出るたびに、それらは必ずや打ち消される宿命にあるように見える。 生命とは、どこまで追いかけても届かない永遠の謎なのだろうか。 そうなのかもしれない。 それでも、私は今日知り得た知識の範囲内で1つの落としどころがあるように思う。 それは生命の謎が解けたというものではない。 むしろ謎解きをあきらめたというべきか、一種の妥協点を見出したに過ぎないのだが。
私が提示する妥協点とは、ある意味で極めて常識的なものだ。 生命の持つ方向性は、最初から与えられていたのである。 それこそ宇宙開闢の当初からあったか、あるいは極めて早い段階で与えられたのである。 例えば、なぜ地球が北極点から見て反時計回りなのかと問われたとしても、そこに特別な理由など無い。 たまたま反時計回りだっただけであって、仮に時計回りだったとしても不思議はなかったであろう。 要は初期条件が地球の回転方向を定めたのである。 そして、初期条件について何故にという問を発しても、それ以上の答は得られない。 生命の持つ方向性も地球の自転に似ている。 初期条件として与えられたものであれば、それを何故にと問い正すことはできない。 何らかの形で「解ける」ものではないし、ましてや解ければ神になれるものでもない。 そこに意味や目的は無い。 ただ最初から在ったのである。

確かに、人間は単純な構成要素から進化してできあがった。 それゆえ、進化とは無から有を生み出すメカニズムなのだと、我々は早とちりしてしまったのではないか。 進化とは、単純な構成要素から複雑な構造を形造るプロセスであるには違いない。 私は、最初から人間そのものが用意されていたとか、人間を形造るプログラムが仕組まれていたと主張するのではない。 進化の持つ方向性は、ランダムで盲目的なものでなく、最初から与えられていたと主張しているのである。 もし進化が本当にランダムであって、盲目的な選択のみよって為されるのであったなら、それこそパソコンのプログラムや単純な機械の組み合わせによって生命が創り出されてもよさそうなものである。 (それを信じて生命を創り出そうと努力を傾けている人は少なくないのだが。) 正直に申し上げよう。 私は人工生命シミュレーションや散逸構造には見切りをつけたのだ。 コンピュータ・シミュレーションやカオス理論には限界があるものと感じる。 ひょっとすると近い将来、思いもよらない新理論が登場して易々と限界を打ち破るかもしれない。 しかし、未知の新理論が人工生命の限界を打ち破る可能性より、生命そのものに対する考え方を改めた方が、より事実に即していると私は感じたのである。

進化に何らかの方向性が与えられていたとする考えは今日の主流ではない。 そればかりか、この考えは安直に「創造主」や、オカルトまがいの何物かを呼び覚ますので、一歩間違うと危険でもある。 ここでは神様を持ち出さず、原因を初期条件に求めることにする。 初期条件として与えられた方向性を認めるにあたって、幾つかの疑問が生じる。

1.生命に与えられた方向性、初期条件とはつまり何なのか。
2.その方向性とは、いかにして進化のプロセス、複雑化、高度化を実現しているのか。
2つの疑問に答えるにあたって、不確定分子モーターで培った概念がものを言う。 以下に述べる答は、不確定分子モーターによる生命のアナロジーである。

まず1.の疑問について、重要なのは「対称性の破れ」という概念だ。 対称性の破れは物理学上の大問題であって、この場でその全てに言及することはできない。 ここでは難しい話題を避け、単純素朴な見解をとる。 話を古典力学の範囲に限定すれば、対称なものから非対称なものが生み出される過程は存在しない。 不確定分子モーターにおいて、可逆な構成部品から一方通行の流れが果たして生じるか、という考察を行った。 そして、非対称性は後から生じるものではなく、最初から内在している必要があるという結論に至った。 この最初から内在している非対称性のことを、不確定分子モーターでは「初源情報」と呼んだ。 初源情報とは、システムに与えられた初期情報のことである。 分子モーターの場合、例えば左右2通りの可能性がある中で、右なら右を優先する1bitの情報のことを指していた。 生命の場合、初源情報が単純に1bitで表現できるものであるかどうかは分からない。 ただ、選択し得る多数の場合の数の中から、ある特別な選択枝だけを偏重する傾向、それそが「生命の存在の証」ではないかと思うのである。

不確定分子モーターの考え方が説得力を持つのは、むしろ2.の疑問についてであろう。 不確定分子モーターは、最初に1bitの元種さえ有していれば、そこからいくらでも多くの流れを生み出すことができる。 ただし、その流れの直接の源泉はランダムな熱運動にあるので、どうしても生じた流れが偶然に支配されることになる。 不確定分子モーターを生命の潮流になぞらえるのは、この「偶然を含んだ一定方向の潮流」という点においてなのだ。 進化とは、生き残りに見合った偶然を待ち続けるプロセスだ。 進化が「突然変異+自然選択」だというのは間違いない。 だからといって全くの偶然だけから非対称性は生じない。 選択に方向性を与えるためのある種の特別な傾向が、即ち初源情報が不可欠なのである。 つまり「初源情報+突然変異+自然選択」で初めて進化は完成する。 不確定分子モーターとは、次の様な仕組みであった。

・目的に見合ったゆらぎが生じるまで待ち続ける。
・ゆらぎが生じたなら、生じたタイミングで取り込んで利用する。
・それゆえタイミングが、即ち時刻が不確定になる。
単純な不確定分子モーターと複雑な生命では、あまりにもかけ離れているかもしれない。 それでも両者には見落とせない重要な共通点がある。 両者とも、必ずしもエントロピー増大の傾向に従っていない、という点だ。 エントロピー増大則に逆らっているのでもなければ、エントロピー増大則を無視しているのでもない。 不確定という代償を払い続けることによって初めてエントロピー増大以外の傾向を持ち続けることが可能となる。 偶然を含んだ一定方向の潮流。 この傾向を説明し得るモデルは、不確定分子モーターをおいて他には無いであろう。

今日の主流からすれば、進化に初期情報を持ち込むのは御法度とされている。 初期条件に頼るのは、思考の放棄ではないか。 それでも私があえて初期条件を持ち出すのは、古典的かつ単純な理由による。

1.可逆な構成要素から非対称性は生じない。
古典力学の範囲に限れば、この命題は真である。 ひょっとすると古典力学を越えた世界で、例えば量子ゆらぎであるとか、素粒子の世界での非対称性が何らかの影響を与えているのかもしれない。 であるならば、非対称性の源泉はそういった極限の物理に求めるべきであって、乱数が流れを生み出したのではない。 非対称性を初期条件に帰着させるには、さらに数ステップが必要となる。
2.もし特殊な初期条件を認めなければ、進化の傾向は可逆であるか、エントロピー増大の傾向に従うかのいずれかである。
3.進化の傾向が可逆であるとは認めがたい。
4.仮に進化がエントロピー増大の傾向に従っていないとすれば、初期条件に帰する他に無いであろう。
ステップ4.には仮定と、幾ばくかの希望が込められている。 これが正しいかどうか、正直なところ私には分からない。 1節に述べた「パンのかび」のように、生命とは一時的な繁栄の末に滅び行くよう運命付けられているのかもしれない。 しかし、不確定分子モーターのようなモデルを考えると、そこにエントロピー増大以外のもう1つの答を見出すことができる。 生命の示す傾向は、必ずしもエントロピー増大則に従わなくともよいのではないか。 むしろ、生命が当初から有していた傾向にかたくなにまで従うこと、それが答だったのではないか。 不確定分子モーターは、そういったもう1つの可能性を示しているのである。

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