第七章 ダーウィンの忘れ物
エントロピーと進化
2006/08/29  

エントロピー増大則の示す未来とは、一体どのようなものか。

偏在から均一へ
複雑な構造から単純な状態へ
秩序から混沌へ
高い山もいつかは崩れて平らになり、鉄は長い間放置すればサビの塊と化し、長期間放置した建造物はいつかは崩れて土に返り、太陽でさえいつかは燃え尽きて均一なガス雲(あるいはブラックホール)となるだろう。 ところが、この世の中には一見するとエントロピーの流れに逆行しているかのような現象が存在する。 それは、我々自信を含む生命の活動だ。 生命とは、高度複雑な構造を維持し、次世代に伝達するメカニズムを有している。 そして何より不思議なのが、生命が単純な状態から複雑な構造へと、進化を遂げてきたことである。

我々の身の回りにある複雑な機械、例えば自動車とか、パソコンとかいったものは、放っておけば壊れるのが当たり前だ。 逆に壊れた機械が自然に直ったなどという話は聞いたことがない。 なぜそうなるのか。 エントロピー流に考えれば次のようになる。 機械が壊れている状態には無数の場合が有り得るが、機械が完成して正常に動作する状態はただ1通り(あるいはごく少数の場合)しか無い。 壊れる確率の方が圧倒的に高いがゆえ、機械を正常に動作させ続けるのは困難なことで、壊れてゆくのが自然な姿ということになる。

生命のように、機械よりさらに高度複雑な構造を維持するのは、それこそ大変な困難が伴うはずだ。 しかし、生命は現にその困難な作業をやってのけている。 例えばこんなことを考えてみよう。 適当な箱の中に機械の部品一式を、ネジや歯車、マイクロチップなどを入れておく。 箱の中をガザガサとかき混ぜたところ、中の部品が自然に組み合わさって機械が完成した・・・こんなことが有り得るだろうか。 しかし、生命はこの離れ業をもやってのけた。 生命は、単純な化合物が自然に組み合わさった結果として生じたのだ。 なぜこんなことが有り得るのか、実に不思議と言う他はない。

こういった生命の活動を見ていると、次のような疑問が生じてくる。

「生きているということは、エントロピーの流れに逆らうことなのではないか?」
生物とて、死んでしまえば後はエントロピーの流れに任せて朽ち果てるだけだ。 生物が、環境の変化に対して己の構造を保持すること、進化を遂げてゆくこと、この2つの特性はそのまま生物が「生きている」ということを表わしているのではないだろうか。 つまり「生きている」ことの定義は「エントロピーの流れに逆行すること」なのではないか。

この問題は長い間自然科学者の興味を引き付けてきた。

一昔前には「生物には特別な生気が宿っていて、無生物とは違った物理法則が支配している」という説明が為されていた。 今日、正面切って「生気論」を唱える人はいないが、それでも「生きているということは特別なのだ」という気持ちは根強く残っていて、「生命には物理法則を越える云々が存在した」などという話を時々耳にする。 確かに、倫理的に生命の重みを訴えるには「生物は特別」な方が都合がよいのかもしれない。 しかし、科学的な視点から事実を受け止めるなら、生物だけが特別に物理法則を越えることは無い。 (もし既存の物理法則に修正が加えられることがあったとしても、それは無条件に「生物だから」ではなく、それ相応の理由に基づくものでなければならない。) そして、物理法則に従うことと生命の尊厳は、次元の異なる全く別の問題であろう。 現在では、いかに生命といえども物理法則〜熱力学の法則を破るものではないというのが公式見解である。

生物とエントロピーについての議論で、よく引き合いに出されるのはシュレーディンガーの「生物はネゲントロピーを食べて生きている」という解釈だ。 ネゲントロピーとは、エントロピーにネガ(マイナス)を付けた「負のエントロピー」という意味である。 生物とて何か活動を行えば、必ずエントロピーを生成するはずだ。 生成したエントロピーを打ち消して生体内部の秩序を保つためには、外部から生成したエントロピーを打ち消すだけの量〜つまりマイナスのエントロピーを取り込む必要がある。 これが「ネゲントロピー論」の骨子である。 この議論は「ネゲントロピー」という言葉が誤解を招きやすい表現だったこともあって、その後様々な反響を呼び起こした。 ここでは詳細な議論は追わずに、大意を汲み取ることにする。 簡単に言えば「生物は、食べて、排出して、汗をかくことによって自己を維持している」ということだ。 確かに、生物は一見するとエントロピー増大に逆行するかのような活動を行っている。 しかし、たとえ生物の内部で局所的にエントロピーが減少したとしても、外部の環境でそれを上回るほどのエントロピー増大が起こっていれば、全体の差し引きでエントロピーは増大する。 生物は体内で生じた余剰のエントロピーを、排泄物、汗、体熱などの形で体外に放出している。 その分だけ生物の周囲の環境ではエントロピーが増大しているはずだ。 周囲の環境がエントロピー増大を受け持ってくれるおかげで、生物自身は高度な秩序を維持することが可能となるわけだ。 このように、周囲の環境とエネルギー、エントロピーのやりとりを行っている対象を「開放系」という。 例えば電気冷蔵庫は、それ自身だけ見るとエントロピー減少を行っているかのように見える。 一様な温度の気体の一部が、自然に冷えることなど絶対にありえない。 この正体は、冷蔵庫のずっと先につながっている発電所にある。 発電所では、原油を燃やすなり、核分裂を行うなどして、巨大なエントロピーの生成を行っている。 その代償として良質な電気エネルギーが得られるわけだ。 冷蔵庫だけ切り離して見ればエントロピー減少に見えるが、「冷蔵庫+発電所」全体ではもちろんエントロピーは増大する。

以上の説明で、生物といえども決し熱力学の例外ではないことが分かる。 エントロピー増大則といえども、局所的なエントロピーの減少を禁止しているわけではない。 しかし「生物とは電気冷蔵庫みたいなものだ」ということで、生命の持つ謎が解けたのだろうか。 我々が本当に知りたいのは、もう一歩進んだ疑問、「なぜ自然に電気冷蔵庫のような仕組みができあがったのか」ということであろう。 発電所の喩えで言うなれば、原油を野放しに燃やした所で電力は発生しない。 原油の燃焼を上手に利用して電力を起こし、その電力を目的の地点まで運び、目的に合わせて利用する、真に驚嘆すべきはこの仕組みに対してである。 生物の摂取する食物も、ただ放置すれば〜あるいは単に燃焼させれば、炭酸ガスと水に分解する。 しかし生物は食物をただいたずらに燃焼させるのではなく、そこから実に複雑巧妙な仕組みを作り出す。 なぜ、このような仕組みができたのだろうか。 発電所と一連の電力システムならば、人間が作ったものということで納得できる。 しかし、生物の持つ仕組みについてはどうだろうか。 我々が生物に対して抱く疑問とは次のようなものだ。
「単純な物理法則(エントロピー増大則)だけで考えると、生物のような高度複雑なシステムが発生するのは異例なことだ。 例えば、炭水化物を分解することだけを考えたなら、単に炭水化物を燃焼させるだけで済む。 しかし、実際の生物は単純な燃焼とは似ても似つかないほど高度複雑なシステムだ。 なぜこの世の中には”単純な燃焼”だけでなく、生物のようなシステムが存在するのか。 エントロピー増大則だけでは説明がつきそうにない。 そこには何かエントロピー増大則とは別の、”生命の意志”とでも呼べるものが働いているのではないか。」

ここから先は、現代科学でもまだはっきりとした答が出ていない。 答が出ていないということで、これ即ち科学を越えた超常の存在とする考えがある。

1.生物は物理法則を免れた特別な存在である。
2.進化はエントロピー増大則の例外である。
3.生物の創世には、人知を越えた創造主の力が働いている。
といったものだ。 特に3.は宗教や信仰の問題にも関わってくるので、安直に是非の判断を下すことは差し控えたい。 ただ、ここではっきりさせておきたいのは、少なくとも1.と2.は認め難いということだ。
1.は生気論の復活以外の何物でもない。
2.は過去の経験に照らし合わせて最もありそうにない。 エントロピー増大則を疑う以前に、もっと他に疑うべき点があるはずだ。

それでは「生命とは何か」という問いに対して、超常の何物かを持ち出すこと無しに、物理法則の中で答が見出せるのだろうか。 もし答が見つかるとすれば、それは既存の物理法則の延長上にあるのか、それとも未だ知られざる未知の原理があるのか。 核心となる問題点は2つある。
1つ目の問題点はエントロピー増大則との兼ね合いだ。 創発はエントロピー増大の反対に思えるのだが、いかにして両者は物理法則の枠内で調和するのだろうか。
2つ目の問題点は、偶然か必然か、である。 生命は決定論に支配された必然の産物なのか、それとも偶然に次ぐ偶然が重なった極めて特殊な事例なのか。 もし必然の産物だとすれば、生物は現在あるべき姿以外にはあり得なかったのだろうか。 既存の生体はL系アミノ酸から成っているが、R系アミノ酸の生物はあり得ないのか。 また、もし生命がありふれた現象なのであれば、地球以外の星々にも我々と似たような生命活動が営まれているのだろうか。

この問題に対する確実な答はまだ無い。 最近の科学が指向する大方の意見は次のようなものだ。

・答は物理法則の中で見出せる。
 しかし、答に至るには既存の物理法則の枠を広げる必要があるだろう。
 それがわずかの修正で済むのか、劇的な革新を迫られるのかについては意見が分かれる。

・創発がエントロピー増大則とかけ離れて見えるのは、創発的な現象が平衡状態から大きくかけ離れているからであろう。
 平衡状態に置かれた系は、しばし結晶のような静的な構造を形作る。
 それに対してエネルギーの流れのある非平衡状態に置かれた系は、動的な構造を形作ることがある。
 結晶が安定的で変化に乏しいのに比して、動的な構造は初期値やわずかの撹拌で大きく様相を変化させる。
 こういった動的な構造は、エネルギーの散逸が伴うことから「散逸構造」と呼ばれている。
 散逸構造の様相は見るからに「生き生きと」しており、生命の織り成す仕組みを彷彿とさせる。
 生命とは、エネルギーの流れの中に発生した散逸構造が高度に複雑化したものなのではないだろうか。

・生命は100%偶然でも100%必然でも無い。
 世界を偶然と必然の2元論で捉えようとしても、総合的な理解には達しない。
 決定的ではあるが予測不能な状態、カオスと呼ばれる視点から捉え直す必要がある。

かつて冒険の時代、地球上には3つの極があると言われていた。 北極、南極、エベレストである。 現代の物理にも3つの極がある。 極小の世界=素粒子、極大の世界=宇宙、そして生命である。 現代科学はこの3極を目指しているのだが、どうも生命の極は他の2極と多少勝手が違うように感ずる。 他の2極は単純で美しい原理を極限まで追求するのに対し、生命の極は複雑で非決定的なものを指向する。 生命の極を目指す者の大半は、そこに何かしら未知の原理、法則があるものと信じているのである。 本当のところはまだ誰にも分からない。 白日の下に照らし出せば、生命の問題について完全解決を見たものは1つも無い。 全てが模索の途中、生命とは未知なのだ。

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