エントロピーと進化
2006/08/29
エントロピー増大則の示す未来とは、一体どのようなものか。
我々の身の回りにある複雑な機械、例えば自動車とか、パソコンとかいったものは、放っておけば壊れるのが当たり前だ。 逆に壊れた機械が自然に直ったなどという話は聞いたことがない。 なぜそうなるのか。 エントロピー流に考えれば次のようになる。 機械が壊れている状態には無数の場合が有り得るが、機械が完成して正常に動作する状態はただ1通り(あるいはごく少数の場合)しか無い。 壊れる確率の方が圧倒的に高いがゆえ、機械を正常に動作させ続けるのは困難なことで、壊れてゆくのが自然な姿ということになる。 生命のように、機械よりさらに高度複雑な構造を維持するのは、それこそ大変な困難が伴うはずだ。 しかし、生命は現にその困難な作業をやってのけている。 例えばこんなことを考えてみよう。 適当な箱の中に機械の部品一式を、ネジや歯車、マイクロチップなどを入れておく。 箱の中をガザガサとかき混ぜたところ、中の部品が自然に組み合わさって機械が完成した・・・こんなことが有り得るだろうか。 しかし、生命はこの離れ業をもやってのけた。 生命は、単純な化合物が自然に組み合わさった結果として生じたのだ。 なぜこんなことが有り得るのか、実に不思議と言う他はない。 こういった生命の活動を見ていると、次のような疑問が生じてくる。
「生きているということは、エントロピーの流れに逆らうことなのではないか?」
生物とて、死んでしまえば後はエントロピーの流れに任せて朽ち果てるだけだ。
生物が、環境の変化に対して己の構造を保持すること、進化を遂げてゆくこと、この2つの特性はそのまま生物が「生きている」ということを表わしているのではないだろうか。
つまり「生きている」ことの定義は「エントロピーの流れに逆行すること」なのではないか。
この問題は長い間自然科学者の興味を引き付けてきた。 一昔前には「生物には特別な生気が宿っていて、無生物とは違った物理法則が支配している」という説明が為されていた。 今日、正面切って「生気論」を唱える人はいないが、それでも「生きているということは特別なのだ」という気持ちは根強く残っていて、「生命には物理法則を越える云々が存在した」などという話を時々耳にする。 確かに、倫理的に生命の重みを訴えるには「生物は特別」な方が都合がよいのかもしれない。 しかし、科学的な視点から事実を受け止めるなら、生物だけが特別に物理法則を越えることは無い。 (もし既存の物理法則に修正が加えられることがあったとしても、それは無条件に「生物だから」ではなく、それ相応の理由に基づくものでなければならない。) そして、物理法則に従うことと生命の尊厳は、次元の異なる全く別の問題であろう。 現在では、いかに生命といえども物理法則〜熱力学の法則を破るものではないというのが公式見解である。 生物とエントロピーについての議論で、よく引き合いに出されるのはシュレーディンガーの「生物はネゲントロピーを食べて生きている」という解釈だ。 ネゲントロピーとは、エントロピーにネガ(マイナス)を付けた「負のエントロピー」という意味である。 生物とて何か活動を行えば、必ずエントロピーを生成するはずだ。 生成したエントロピーを打ち消して生体内部の秩序を保つためには、外部から生成したエントロピーを打ち消すだけの量〜つまりマイナスのエントロピーを取り込む必要がある。 これが「ネゲントロピー論」の骨子である。 この議論は「ネゲントロピー」という言葉が誤解を招きやすい表現だったこともあって、その後様々な反響を呼び起こした。 ここでは詳細な議論は追わずに、大意を汲み取ることにする。 簡単に言えば「生物は、食べて、排出して、汗をかくことによって自己を維持している」ということだ。 確かに、生物は一見するとエントロピー増大に逆行するかのような活動を行っている。 しかし、たとえ生物の内部で局所的にエントロピーが減少したとしても、外部の環境でそれを上回るほどのエントロピー増大が起こっていれば、全体の差し引きでエントロピーは増大する。 生物は体内で生じた余剰のエントロピーを、排泄物、汗、体熱などの形で体外に放出している。 その分だけ生物の周囲の環境ではエントロピーが増大しているはずだ。 周囲の環境がエントロピー増大を受け持ってくれるおかげで、生物自身は高度な秩序を維持することが可能となるわけだ。 このように、周囲の環境とエネルギー、エントロピーのやりとりを行っている対象を「開放系」という。 例えば電気冷蔵庫は、それ自身だけ見るとエントロピー減少を行っているかのように見える。 一様な温度の気体の一部が、自然に冷えることなど絶対にありえない。 この正体は、冷蔵庫のずっと先につながっている発電所にある。 発電所では、原油を燃やすなり、核分裂を行うなどして、巨大なエントロピーの生成を行っている。 その代償として良質な電気エネルギーが得られるわけだ。 冷蔵庫だけ切り離して見ればエントロピー減少に見えるが、「冷蔵庫+発電所」全体ではもちろんエントロピーは増大する。
以上の説明で、生物といえども決し熱力学の例外ではないことが分かる。
エントロピー増大則といえども、局所的なエントロピーの減少を禁止しているわけではない。
しかし「生物とは電気冷蔵庫みたいなものだ」ということで、生命の持つ謎が解けたのだろうか。
我々が本当に知りたいのは、もう一歩進んだ疑問、「なぜ自然に電気冷蔵庫のような仕組みができあがったのか」ということであろう。
発電所の喩えで言うなれば、原油を野放しに燃やした所で電力は発生しない。
原油の燃焼を上手に利用して電力を起こし、その電力を目的の地点まで運び、目的に合わせて利用する、真に驚嘆すべきはこの仕組みに対してである。
生物の摂取する食物も、ただ放置すれば〜あるいは単に燃焼させれば、炭酸ガスと水に分解する。
しかし生物は食物をただいたずらに燃焼させるのではなく、そこから実に複雑巧妙な仕組みを作り出す。
なぜ、このような仕組みができたのだろうか。
発電所と一連の電力システムならば、人間が作ったものということで納得できる。
しかし、生物の持つ仕組みについてはどうだろうか。
我々が生物に対して抱く疑問とは次のようなものだ。 ここから先は、現代科学でもまだはっきりとした答が出ていない。 答が出ていないということで、これ即ち科学を越えた超常の存在とする考えがある。
1.は生気論の復活以外の何物でもない。 2.は過去の経験に照らし合わせて最もありそうにない。 エントロピー増大則を疑う以前に、もっと他に疑うべき点があるはずだ。
それでは「生命とは何か」という問いに対して、超常の何物かを持ち出すこと無しに、物理法則の中で答が見出せるのだろうか。
もし答が見つかるとすれば、それは既存の物理法則の延長上にあるのか、それとも未だ知られざる未知の原理があるのか。
核心となる問題点は2つある。 この問題に対する確実な答はまだ無い。 最近の科学が指向する大方の意見は次のようなものだ。
かつて冒険の時代、地球上には3つの極があると言われていた。 北極、南極、エベレストである。 現代の物理にも3つの極がある。 極小の世界=素粒子、極大の世界=宇宙、そして生命である。 現代科学はこの3極を目指しているのだが、どうも生命の極は他の2極と多少勝手が違うように感ずる。 他の2極は単純で美しい原理を極限まで追求するのに対し、生命の極は複雑で非決定的なものを指向する。 生命の極を目指す者の大半は、そこに何かしら未知の原理、法則があるものと信じているのである。 本当のところはまだ誰にも分からない。 白日の下に照らし出せば、生命の問題について完全解決を見たものは1つも無い。 全てが模索の途中、生命とは未知なのだ。 |