筋肉 = 不確定分子モーター仮説
2006/08/29
「筋肉は本当に熱ゆらぎを利用しているのか。具体的な証拠はあるのか。」
ナノマシンとしての生体が熱ゆらぎを利用する可能性についてあれこれ考えてきたが、最大の関心事は可能性ではなく、事実がどうであるかであろろう。
しかし残念ながら、この場で決定的な証拠を述べることはできない。
というのは筋肉の動作原理は現在でも完全に解明されたとは言えないからである。
それでも、これまでに為されてきた筋肉に関する研究成果から、有望な間接的証拠を挙げて示すことはできる。 筋肉を詳しく調べると、2種類のタンパク質繊維が交互に入り込んだ構造になっている。 2種類のタンパク質はそれぞれアクチン、ミオシンと呼ばれている。 2種類の繊維は互いにスライドして重なり合い、その結果筋肉全体が収縮する。 問題は2種類の繊維がどのようにしてスライドするのか、その機構についてである。 これまでに提案されている仮説モデルを化学反応と力学的運動の対応という視点から大別すると、次の2つに分類される。
1.タイトカップリング説
2.ルースカップリング説 1.タイトカップリング説とは、1回の化学反応に対応して1回の運動が生じる、という考え方だ。 筋肉を構成するタンパク質にエネルギー源となるATP分子が出会うと、タンパク質分子が何らかの変形を行って筋肉を動かす、というものである。 この説の特徴は「1個のATP分子に対して1回のタンパク質分子変形が生じる」という点にある。 最もシンプルな考え方は「首振り説」と呼ばれているものだ。 タンパク質の一方、ミオシンからボートのオールのような棒が出ており、もう一方のタンパク質であるアクチンを「漕ぐ」。 ATP分子は「オールの変形」を行っていると考えるのである。 この「首振り説」はあまりにも単純素朴であって、現在そのままの形で受け容れられている訳ではない。 しかし「ATP分子 -> 化学反応 -> 機械的な変形 -> 運動」という一連の流れが1つの動作単位となっているという考え方は、その後の多くの仮説モデルの基礎となった。 2.ルースカップリング説とは、単純に1回の化学反応と1回の運動が対応していない、とする考え方だ。 実際に筋肉を構成するタンパク質の挙動を調べたところ、1.の考え方ではどうも説明がつき難いデータが得られたのである。 ・アクチンが滑り運動を起こしている距離を測定し、それをATP1分子あたりに換算すると60nmほどになった。 この長さはミオシンの頭部サイズ(10nm程度)よりもずっと長い。 大きさから考えて、ATP1分子に対して何回も運動が生じていないとつじつまが合わない。 つまり化学反応:運動は1:1ではない。 (この結果は有名な Natureに掲載されている、1985) さらに、柳田研究グループでは(驚くべきことに)ただ1個のミオシン分子を直接測定することによって、次の事実をつきとめた。 ・ミオシン1分子だけを取り出して頭部の変位を測定したところ、ミオシンは1回のATP反応サイクル中に何度もアクチンと相互作用しながら滑ってゆくことが確認された。 ミオシンは 5.5nm ごとに、ステップ刻みでアクチンの上を動く。 しかも、そのステップは確率的で、前進するばかりではなく、たまに後退することもある。 ・負荷をかけると1回のATP反応に対するステップ数が減少し、全体としての運動の距離が小さくなる。 ただし、負荷にかかわらず 5.5nm 刻みにステップするという挙動は変わらない。 これが仮にタイトカップリングだとしたら、負荷の有無にかかわらず一定の運動しかできないはずだ。 負荷によるステップ数の変化は、いわば変速機のような役目を果たす。 このような柔軟な仕組みがなければ、高いエネルギー利用効率は実現できないであろう。 さて、「筋肉が熱ゆらぎを利用している」という考え方はルースカップリング説から導かれたものだ。 ミオシン分子は確率的に行ったり来たりする。 この挙動は熱ゆらぎを何らかの形で取り込んでいるものと解釈するのが自然ではないか。
ここにおいて筋肉と不確定分子モーターの接点が生じる。
不確定分子モーターは、筋肉やタンパク質分子の構造とはもともと何の縁もない、理論上の産物である。
分子モーターの説明に登場した「気体分子の入った箱」や「信号装置」と、複雑なタンパク質分子構造は似ても似つかない。
それでも不確定分子モーターは、筋肉の原理的な側面を説明する1つのモデルとなり得る。 具体的な数値を見積もってみよう。 生体中でATP1分子の持つエネルギーは 10^-21J = 82 pNnm である。 ミオシン1分子が生じる力は 2 pN、ATP1分子で滑る距離に 36nm というデータを用いると、筋肉の出力は 2 x 36 = 72 pNnm となる。 熱ゆらぎの大きさは kT = 4 pNnm 程度。 最も見積もりが難しいのは「出力のパターン数」である。 ステップ出力のグラフ形状を見て、多くて5ステップ程度前進するというあたりから 2 ^ 5 = 32 パターンくらいだろうと大雑把に仮定してみよう。 このときの熱ゆらぎによる寄与は kT ln N = 4 * ln 32 = 14 pNnm。 出力の 20% 程度を補っている勘定になる。 仮に出力の 50% を熱ゆらぎによって補っているのだとしたら、Exp (36 / 4) = 8100 パターンとなる。 グラフの見た目だけで判断すると 8000パターンもあるとは思えないので、やはり熱ゆらぎは補助動力と考えるのが妥当だろう。
不確定分子モーターの考え方は上記のごとくシンプルだ。 なぜミオシンが行ったり来たりの確率的な挙動を示すのか、それには理由がある。 熱ゆらぎを利用するため、ミオシンは積極的に出力パターン数を稼いでいるのだ。 もし生物が真に機能的であるならば、さしたる理由もなくふらふらと行ったり来たりするメカニズムを採用するとは考えにくい。 もちろん確率的な出力には、もう1つのありきたりの理由が考えられる。 単に熱ゆらぎに邪魔されているだけ、というものだ。 しかし、もしそうだとしたら極端な話、生体は温血ではなく、コンピュータの様にできるだけ低温に保った方が有利ということになる。 (化学反応速度もあるので一概にそうとは言えない面もあるが。) もし熱ゆらぎが邪魔だったなら、もっと硬い素材を使った「硬い機械」になったであろうと思うのである。 また、単純に熱ゆらぎが雑音としてしか働いていないのであれば、出力のゆらぎはkT程度のはずだ。 それ以上にゆらぎを大きくする積極的な理由がない。 もう1つ、不確定分子モーターの考え方によって筋肉の運動を上手く説明できる点がある。 それは「高負荷ほどステップ数が少なくなる」という点だ。 1個の気体分子が入ったピストンを想像してみよう。 例えば気体分子が空間全体の1/2に入ったときに仕事を取り出す場合と、空間全体の1/8に入った場合を比較すると、前者は後者より短時間で観測を終えるが、取り出される仕事の大きさは小さい。 後者はいわば「大物ねらい」なのである。 低負荷の場合は「小物をすばやく」、高負荷の場合は「大物をじっくり待って」取り出す仕組みが筋肉に備わっているとすれば、負荷によってステップ数が変化することにも納得がゆく。 つまり「大物」の場合は、1ステップが低い頻度でしか出ないのである。 かくして「熱ゆらぎを観測して仕事を取り出す」といった考え方に立てば、可変的な出力は自然に導かれる。 反対に「熱ゆらぎは全く関与しない」という前提に立つと、可変的な出力を平明に説明することは困難であろう。 オートマチック車の様な機構が組み込まれているのだろうか。 それには負荷を検知してフィードバックするような仕組みが必要かと思うのだが、フィードバックの仕組みは熱ゆらぎの観測よりもむしろ困難なのではないか。
もし自然界に熱ゆらぎを巧みに利用した現象があるとしたなら、それは生物の中に見出されるに違いない。
生体分子は常に熱ゆらぎの嵐に揉まれながら進化を遂げてきた。
生体分子が熱ゆらぎを利用するのは、むしろ自然な姿なのである。
不確定分子モーターの実例は意外なほど身近なところにあった。
筋肉こそがその実例である。 不確定分子モーターの考え方は、ルースカップリング説と同様、理解しにくい一面がある。 デジタルコンピューターと決定論に慣れ親しんだ頭脳にとっては、「不確定」な挙動は感覚的に受け容れがたいのであろう。 しかし、果たして自然はデジタルコンピューターの様な素子と仕組みによって構成されているのだろうか。 改めて「私たち自身」が何から構成されているかを見直せば、そこには決定論とは違った世界が広がっていることに気付くはずだ。
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