不確定の定式化 〜 情報エネルギー
2006/08/24
それでは、いよいよここで「不確定分子モーターの原理」についての定式化を行なおう。
命題
ある系が外界から熱量Qを取り入れ、それを仕事(利用可能なエネルギー)Eに変換することを考える。
温度差の無い環境下で、他に何ら変化の痕跡を残さず熱を仕事に変換することは、従来不可能と考えられてきた。
しかし、エネルギーEの出力の仕方が非決定的であり、何通りかの出力パターンをとり得る場合には、熱から仕事を取り出すことは必ずしも不可能ではない。
ここで言う出力パターンとは、エネルギーがどのタイミングで出力されるかについての場合の数、つまり時間軸上の場合の数を意味している。
E <= kT ln N
N本のグラフの重み(実現する確率)が同等でなかった場合、一般的な出力パターンの総数Nは次の様に求められる。
N通りの出力がそれぞれ確率Pnで実現するとき、上式の ln N に相当する項は
k : ボルツマン定数 T : 絶対温度 N : エネルギーの出力の仕方についての場合の数、出力パターンの総数
Σ[n] Pn ln ( 1 / Pn )
で置き換えられる。
この実現確率Pnを用いて最初の式を書き直せば
E <= kT Σ[n] Pn ln ( 1 / Pn )
となる。
上の命題を次の様に言い換えることもできる。 系が出力するエネルギーEを一種の情報伝達の信号ととらえて、一定時間内にEが出力先にもたらす情報エントロピーをS’とする。 このとき、一定時間内に系から出力されるEの積算値は、情報エントロピーS’に温度Tを乗じたものを超えることはない。
E <= T S'
エネルギーEの出力の仕方が非決定的であり、予測できないということは S’> 0 ということである。
S’> 0 であれば E >= 0 となり得る。
つまり、上式で与えられた上限を超えない範囲で、幾ばくかの利用可能なエネルギーが得られる可能性がある。
S' = k ln N = k Σ[n] Pn ln ( 1 / Pn )
利用可能であることの定義
上の命題で言う「利用可能」とは、一体どのような状態を示しているのだろうか。 仕事を利用するには、利用者が「かくあって欲しい」と期待するベクトルが存在する。 このベクトルを期待ベクトルUとする。 Uは単に方向を示す無次元の量である。 Uは必ずしも固定ではなく、一般には時間tに対する関数U(t)として表される。 一方、仕事の発生源のベクトルを仕事ベクトルV(t) とする。 Vは、仕事発生源の出力に位置する境界面s を通過するエネルギーの流量E(t)に、境界面s の法線ベクトルを乗じたものである。
V(t) = Ns * E(t)
ここで、仕事ベクトルVが利用可能であるとは、ある期待ベクトルUが存在して、取り出される仕事の総計
∫[t](U(t) * V(t))dt ≠ 0
とできることである。
要は仕事の発生源Vに対して、内積の時間平均が0とならないような上手いベクトルUを利用者が用意することができれば、Vはその利用者にとって利用可能であるとするわけだ。 全くランダムな熱運動は、いかなるベクトルUをもってしても内積の時間平均が0となる。 つまりランダムな熱運動は利用可能ではない。 利用者がベクトルUを用意できるとは、即ち利用者が仕事ベクトルVの出方を知っている、予測できる、ということである。 上の定義は「利用者が何らかの知識を持ち合わせていれば利用可能である」ということを、U,Vという道具立てを用いて表現したまでに過ぎない。
利用可能な仕事についての検討
周知の様に、仕事とは「力x距離」(気体を念頭に置けばE=PV)のことである。 マクロな視点から見たとき、仕事の定義はこれで十分なのだが、今検討中の問題に対してはもう少し補足すべき事項がある。 それは「利用可能な仕事とは、作用する向きが機知である」という点だ。 マクロな世界では仕事と熱の区別は自明なものであったが、ミクロな世界において両者の区別は必ずしも自明ではない。 ランダムに熱運動する分子が他の分子に衝突したとき、分子に対して及ぼした力積を「仕事」と呼ぶだろうか。 ここで言う「利用可能な仕事」には、「作用する向きが機知である」といった意味付けを行う必要がある。 熱力学においては、利用可能なエネルギーのことを「自由エネルギー」と定義付けている。 (ギプスの)自由エネルギーとは
G = U - TS
で定義付けられる量のことである。U は系の持つ全内部エネルギー。 TSは、温度xエントロピー=熱の持つエネルギー。 Gとは、全エネルギーから直接利用することのできない熱エネルギーを差し引いた分である。 それでは、上の命題で言う仕事(利用可能なエネルギーE)は、この自由エネルギーと同じものだろうか。 そうではない。 なぜなら、ここで言う利用可能な仕事E=自由エネルギーGを認めると、Gが増加すること=Sが減ること、つまりエントロピーの減少を意味するからだ。 ここで言う仕事(利用可能なエネルギーE)は、自由エネルギーGと同じではない。 つまり、ここで言う仕事(利用可能なエネルギーE)とは、 「作用する向きが機知でありながら、自由エネルギーとは呼べない」 ような奇妙な性質を持った作用のことなのである。 この奇妙な性質を持った仕事が具体的に何であるかと言えば、それは「作用する時刻が不確定」な仕事のことを指す。 「作用する時刻が不確定な仕事」は、無条件に自由エネルギーと等価であるとは言い難い。 時刻が不確定という側面からすると、この仕事は情報エントロピーの運び手となっている。 それと同時に、一方の向きに作用するという側面からすると、利用可能な仕事でもあるわけだ。
熱力学的な定式化
それでは、この奇妙な性質を持つ、作用する時刻が不確定な仕事を何と呼ぶべきだろうか。 ここで1つの前提を受け入れる必要がある。 それは S'= S、つまり情報エントロピー=熱統計エントロピーである、とすることだ。 完全に熱平衡に達した系は、利用すべきものが何も残されていない、自由エネルギー=0の状態である。
G = U - TS = 0
この0の状態から「不確定なエネルギーE」が生み出されるとは、
E - T S' = 0
ということだ。
ここで出現した S' は、E自身が有する情報エントロピーである。
S と S' が等価なものだとすれば、E = T S' = T S に相当するだけのエネルギーが生ずることになる。
それでは、このEとは一体何なのだろうか。
Eとは「不確定」であり、「利用可能な」エネルギーでありながら、自由エネルギーではない。
古典的な熱力学には、この「不確定なE」を呼ぶ適当な用語は無いように思われる。
そこで本論では、ここに出現する奇妙なエネルギーを「情報エネルギー」 という造語で呼ぶことにする。 情報エネルギーとは、「情報エントロピーから生み出される力」という意味である。 造語センスの善し悪しはともかく、「情報エネルギー」が古典的な熱力学から見ればあいまいな位置付けにあることだけは確かだろう。
情報エネルギーは熱と同じか
不確定であり、利用可能でありながら、自由エネルギーではない量のことを、ここでは「情報エネルギー」と呼ぶことにした。 情報エネルギーは自らの持つ情報エントロピーS’に相当する大きさを持ち合わせている。
E = T S'
ところで、熱エネルギーとは温度にエントロピーを乗じたものである。
Q = T S
ここで両者を比べると、情報エネルギーとは要するに熱エネルギーのことなのではないかとの疑念に駆られる。
ここで想定している装置は単に熱を取り入れて熱を出力しているだけ、つまり何も行っていないのではないか。
そして、情報エネルギーなどという用語は単なる言葉のあやであって、その実体はただの熱に過ぎないのではなかろうか。
この指摘は、実のところ半分当たっているのである。 エントロピーの運び手という側面からすれば、熱エネルギーも情報エネルギーも同等の役割を担っている。 両者はどちらもエネルギーの次元の量であり、不確定、わからなさ、ランダムネス、といったものを持つ。 熱を利用可能な情報エネルギーに変換する装置というものも、つまるところ熱を取り入れて、ある特殊な形態の「熱」を出力する装置なのである。 それだからこそ、この装置は熱力学の法則に反していないのだと言える。 しかし、別の側面からすると、情報エネルギーと熱エネルギーにはやはり明確な違いがある。 それは、上にも述べた「利用可能か、不能か」の違いである。 熱エネルギーとは、あらゆる方向にランダムな運動を行うが故、直接に利用可能ではない。 一方、情報エネルギーとは、ランダムな要素を含みはするが、あらゆる方向に作用するわけではない。 情報エネルギーとは、ある特定の方向だけに作用しつつも、ランダムな特性を失わない作用のことである。 いかにしてそれが可能になるかと言えば、エネルギーが作用する時刻をランダムにすることによって実現しているのである。 ところで、ある一定量のエネルギーに多数の場合の数(=エントロピー)を持たせることを考えたとき、場合の数が最大となるのはどのようなときだろうか。 答えは熱平衡状態に達したとき、つまりあらゆる方向に均等に(ランダムに)エネルギーが行き渡ったときである。 一方、利用可能な情報エネルギーとはある特定の方向に作用するので、熱平衡状態でもなく場合の数が最大の状態でもない。 もし熱が「情報エネルギー」と呼ばれる状態に変換できたとすれば、それは場合の数が減ったことを意味し、不合理なのではないか。 そうはならない。 場合の数の破綻が生じない理由は、やはり「時間」にある。 最も単純なケース、2単位時間(2秒)に1回だけ情報エネルギーを出力する装置を考えてみよう。 エネルギーの出力パターンは2通り、1単位時間後に出力する場合と、2単位時間後に出力する場合のいずれかとする。 このとき出力されるエネルギーEは2通りの1bit相当、E <= kT ln 2 となる。 装置は、これだけの大きさの熱量Qを取り入れて、Eを出力している。 単純にQとEを比較すると、Qの持つ場合の数はあらゆる方向に均等であり、Eの持つ場合の数は一方向に限定されているので、場合の数が減少しているかに見える。 ここではEはQの半分の場合の数しか有していないように見える。 しかし、この比較には「1単位時間後か、2単位時間後か、どちらかわからない」という条件が欠けている。 Qが時間経過に対して定常的であるのに対し、Eは時間に依存する。 Eの存在し得る(0ではない)時間は、2つの場合のうちのどちらか一方だけである。 それゆえ、存在し得る時間だけを比較すれば、Eの持つ場合の数はQの半分だけであっても矛盾を来さない。 なぜならEの持つ場合の数には、もう一方の存在し得ない時間の分も勘定に含めるからである。 つまり
歌う原動機
さて、上では「出力パターン、エネルギーがどのタイミングで出力されるかについての場合の数、つまり時間軸上の場合の数」という説明をしたのだが、これが何を表しているのかイメージを描き難いかもしれない。 そこで、理解の一助として1つのたとえ話を付け足そうと思う。 実は、「時間軸上に配置した出力パターン」とは、誰もが知っている1つの芸術に似ている。 それは「音楽」である。 音楽とは、正に「時間軸上に配置されたエネルギーの出力パターン」のことであろう。 我々の知る仕事を取り出す機械、エンジンや蒸気機関、モーターといったものは、ある一定の騒音を発するものの、それが音楽を奏でるものだとは(普通は)受け止められていない。 それというのも、こういった類の原動機は単調な一定パターンを出力するため、発する音も単調で退屈を誘うものにしかならないからである。 ところが、ここで出力パターンが不定で、次にどのような音が飛び出すかわからないような機械を思い描くとどうなるか。 そのような機械は、出力の奏でる音楽によって情報を発信することができる。 そして、出力した音楽に託せる情報の分だけ、新たなエネルギーを生み出すことができるのである。 通常の、出力が確定的であるような「歌わない機械」は情報を消費して、その分だけのエネルギーを生み出す。 それに比して出力が不確定であるような「歌う機械」は、自らが歌に込めた情報の分だけ自らエネルギーを生み出す。 「出力パターン」とは機械の奏でる楽譜のことであり、より表現豊かな機械は、より大きなエネルギーを生み出すことができるのである。 |