前節で挙げた”悪魔の装置第二号”の詳細を検討しよう。
ここで述べる内容は、第2章「悪魔の装置第一号の詳細」にかなり類似している。
構成要素
第一号で定義した「信号」「経路」「ゲート」「ハンドル」は、ここでも用いられる。
「ゲート」とは、外界の物理的条件によって信号の流れを制御する装置のこと。
「ハンドル」とは、信号の流れによって外界の物理的対象を操作する装置のこと。
いずれも本論だけの特別な呼び方である。
詳しくは第2章「悪魔の装置第一号の詳細、構成要素」を参照のこと。
これらの構成要素を応用して、ここではさらにもう1つの要素をつけ加えよう。
*:分岐ゲート
特定の物理的条件に従って、信号の経路を切り替える装置のこと。
例えばある分岐ゲートは1つの経路Xの先を、物理的条件がaの場合には経路Aと接続し、物理的条件がa以外の場合には経路Bと接続する。
分岐ゲートを逆向きに用いることによって、複数の経路を1つに合わせることができる。
例えば、物理的条件がaのとき経路Aから来た信号と、物理的条件がa以外の場合に経路Bから来た信号は、分岐ゲートによって同一の経路Xに導くことができる。
これ以外の場合、例えば物理的条件がaのとき経路Bから来た信号は、分岐ゲートで反射してもときた経路Bを戻るものとする。
装置の構成
装置の挙動を追って、必要とされる構成要素をあてがってゆこう。
まず、複数の箱の中のどれか1つ気体分子が入っている状況を想定する。
1つの箱を取り出し、その中に分子が入っていれば経路Aへ、入っていなければ経路Bへと信号を導くような分岐ゲートを置く。
この分岐ゲートを、以下「プローブゲート」と呼ぼう。
経路Aに入った信号は、続いて以下2つの動作を行う。
・箱を全てつなげて1つにする。
・ピストンを配置して気体分子から仕事を取り出す。
これらを実行するために、2つのハンドルが必要となる。
それぞれ「箱接続ハンドル」と「ピストン移動ハンドル」とする。
経路Aを通った信号と、経路Bを通った信号はどこかで合流する必要がある。
この合流を行う分岐ゲート(分岐ゲートを逆向きに配置したもの)を「マージゲート」と呼ぶことにする。
マージゲートによって2つの経路AとBは1つの経路Xへと導かれる。
マージゲートを制御する物理的条件は、ピストンの位置に依るのが妥当であろう。
ピストンが圧縮された状態にごく近い場合、マージゲートは経路Aと経路Xを接続し、それ以外の場合は経路Bと経路Xを接続する。
こうすれば、経路Aを通った信号がピストンを圧縮位置に移動した直後にだけ、経路Xに入る逃げ道が開くことになる。
経路A軽油で経路Xに入った信号は、その後
・ピストンが仕事を取り出し終えるのを待つ。
・1つにつながった箱を元の複数の箱に戻す。
といった2つの動作を行う。
仕事を取り出し終えるのを待つために、経路Xの先には1つのゲートを置く必要がある。
このゲートを「リカバーゲート」と呼ぶことにする。
リカバーゲートは、仕事を取り出し終えたピストンが膨張位置に達したときだけ開くように配置する。
リカバーゲートの直後に、1つにつながった箱を元の複数の箱に戻すための処理、「箱分断ハンドル」を配置する。
「箱分断ハンドル」は、先の「箱接続ハンドル」のちょうど逆である。
箱接続ハンドルを逆の向きに信号が通過すれば、それは箱分断ハンドルとして機能する。
次に経路Bのことを考えると、経路Bの上にも「箱接続ハンドル2」と「ピストン移動ハンドル2」、「リカバーゲート2」が必要なことに気付く。
経路Bを通過したときも、経路Aと同様に箱を接続しておかないと、後で経路Xから出るときに箱を分断することができない。
ピストン移動ハンドル2も同様の理由による。
経路A上に置かれたピストン移動ハンドルがピストンを圧縮位置に置くのに対し、経路B上のピストン移動ハンドル2はピストンを膨張位置に置く。
信号が経路Bの上を逆向きに走ったときでもピストンが必ず膨張位置にあることを保証するため、経路B上にはリカバーゲート2が必要となる。
リカバーゲート2は、ピストンが膨張位置にあったときだけ開く。
経路Xからリカバーゲートを抜けた信号は、再び最初のプローブゲートの入口に戻って、箱の中身の調査を開始する。
当初の「箱を1個ずつ順番に調べる」というアイデアからすると、「箱を1個だけ順送りして次に移動する」という処理が必要と思われるかもしれない。
しかし、この順送りは意味を成さない不要な処理である。
なぜなら、箱をつなげて1つにした時点で分子はどこに飛んでゆくのか分からなくなるので、次に調べる範囲(箱)はどこでも同じだからである。
***以上の様子を図示してみよう***
装置の挙動
以上で考えた経路上で、信号が順方向、逆方向に回る確率をそれぞれ見積もってみたい。
もし順、逆の確率が全く同等であれば、全体としてこの装置は意味を成さないことになる。
もし順、逆の確率に差異があれば、この装置は分子の熱運動から有意なエネルギーを取り出せることになる。
ここでは経路上の2つの状態間の遷移確率を調べることにしよう。
信号が箱の中の分子を調べる直前にあるときを「状態0」とする。
信号が「マージゲート」と「リカバーゲート」の間にあって、気体分子がピストンを押している(あるいはピストンに押されている)状態を「状態X」とする。
この2つの状態、0とXを結ぶ経路は3本ある。
箱の中に分子が見いだされ、信号が経路Aを通ってピストンを移動した後に状態Xとなる経路「ルートA」。
箱の中に分子が見いだされず、信号か経路Bを通って何もせずに状態Xとなる経路「ルートB」。
信号が箱を調べるのとは逆の方向に走り、リカバーゲートから状態Xとなる「ルートR」。
この3本のルートについて、それぞれ順方向(状態0 -> X)と、逆方向(状態X -> O)の確率を調べてみよう。
状態0 -> X:
|
順方向と逆方向を同じ重みと考え、Pr(ルートA)+Pr(ルートB)= Pr(ルートR)とする。
部屋の数はN個あるものとして、分子を発見する確率は 1/N 。
ルートA
1/2 * 1/N
ルートB
1/2 * (N-1)/N
ルートR
1/2
|
|
状態X -> O:
|
ルートA~
押し戻される確率 * 箱の中に分子が見つかる確率:
S * 1/N * exp( - ΔW/kT) * 1/N
ルートB~
伸びきる確率 * 箱の中に分子が見つからない確率 :
S * 1/N * exp(ΔW/kT) * (N-1)/N
ルートR~
伸びきる確率 :
S * 1/N * exp(ΔW/kT)
|
|
ここで S は Pr(ルートA)+ Pr(ルートB)+ Pr(ルートR)の値を1に規格化する定数で、
S = N/2 * { (exp( - ΔW/kT) * 1/N) + (exp(ΔW/kT) * (N-1)/N) + exp(ΔW/kT) }
= N/2 * { (exp( - ΔW/kT) * 1/N) + (exp(ΔW/kT) * (2N-1)/N) }
といった値をとる。
ピストンが押し戻される確率と伸びきる確率は次の様にして求めた。
|
まずエネルギーの差異が、系の状態にどのように寄与するかを考える。
いま、2つの異なる状態間にΔWだけのエネルギー順位の差があったとする。
系が2つの状態それぞれにある確率を P1, P2 とすれば
ΔW = kT ln[ P2 / P1 ]
この式を、分子を圧縮領域に押し込むには ΔW だけの外力が必要だと読み替え、P1 を系が圧縮領域にある確率、P2 を圧縮領域外にある確率と解釈する。
次に、部屋の広さの寄与を考える。
空間全体に対して圧縮領域は1/Nの広さを占めているので、広さの違いとエネルギーの偏りの両方を掛け合わせて
押し戻される確率 Pcompress = 1/N * exp( - ΔW/kT)
膨張領域に伸びきっている確率は、圧縮領域の逆になる。
ただし、ここでは膨張領域も全体の1/Nとしてある。
伸びきる確率 Pexpand = 1/N * exp(ΔW/kT)
式の形としては expの中の符号が変わるだけである。
|
|
仕事を100%準静的に取り出した場合、力がつりあっているのでどこが有利ということもない。
このとき
|
押し戻される確率 Pcompress = 伸びきる確率 Pexpand = 1/N
|
|
となる。
これは上の式でΔW = 0の場合に相当する。
ΔW = 0として状態X -> O:を見直すと次の様になる。
状態X -> O:
|
ルートA~
押し戻される確率 * 箱の中に分子が見つかる確率:
S * 1/N * 1/N
= 1/2 * 1/N
ルートB~
伸びきる確率 * 箱の中に分子が見つからない確率 :
S * 1/N * (N-1)/N
= 1/2 * (N-1)/N
ルートR~
伸びきる確率 :
S * 1/N
= 1/2
|
|
この場合は S = N/2 であり、上の状態0 -> X:と全く同じ値を取る。
つまりΔW = 0のときは状態X -> O:と状態0 -> X:は完全に等しくなり、順、逆方向のどちらかが一方的に優先されることはない。
ΔW > 0のときは、ΔW = 0 のときに比べて Pr(ルートA~)が小さくなり、Pr(ルートB~)と Pr(ルートR~)が大きくなる。
つまりΔW > 0のとき、信号がルートAから入ってルートB、又はルートRから抜ける確率が大きくなる。
信号がより高い確率でルートAに入るということは、分子がピストンを押して熱運動を仕事に変える確率が高い、ということである。
以上は式を追わずとも、ある程度まで推し量ることができるだろう。
仮に、この装置が常に釣り合いの状態を維持し、熱運動=ピストンにかかる外力であったとしよう。
このとき装置は常に順方向と逆方向が釣り合っているのだから、どちらか一方向だけが優位にはならない。
次に、ピストンにかかる外力を少なくして、気体が部屋いっぱいに広がる向きの方が優勢だったとする。
すると、気体を圧縮状態に戻す確率、即ちルートAの逆は起こりにくく、気体を膨張する確率、即ちルートRの逆は起こりやすくなる。
つまり、気体が膨張するのが自然な傾向だとするならば、その分だけ熱を仕事に変換できることになるのである。
秘密はどこにあるか
装置の詳細を追ってみると、まるで手品の様に熱運動が有効なエネルギーに変換されたように感じられるかもしれない。
しかし、この装置の最も重要な原理は複雑なゲート構成や確率の評価に潜んでいるのではない。
次にエネルギーが取り出されるまでの時間の長さが不定なこと、これが最大の鍵である。
可逆コンピュータから考察を進め、コンピュータと類似の装置にはデータのゴミを捨て去る仕組みが必要なことが分かった。
しかし、ここで考えた装置には履歴テープもクロックも無い。
装置から取り出されるエネルギー自身がデータのゴミを捨て去る働きを担っているのである。
装置内で「リカバーゲート」と呼んだ部分、2つの経路A、Bの合流点がデータのゴミを破棄している部分に相当する。
リカバーゲートでは、気体分子がピストンを押す力=装置から取り出されるエネルギーを用いて経路の合流を実現している。
なぜエネルギーを稼ぎ出し、なおかつデータのゴミを捨て去ることが可能なのか。
それは装置の1周期の長さ、一度エネルギーを取り出してから次回にエネルギーを取り出すまでの時間の間隔が不定なためである。
仮に、装置の周期に要した時間を何かに記録しておいたとすれば、その時間についての記録こそが履歴テープと同じ意味を持つ。
装置から得られたエネルギーと、履歴テープ作成に要するエネルギー、つまり時間の長さを記録するのに要するエネルギーは等しくなる。
ところが、この装置では内部には一切記録を残さない。
ただ、取り入れた熱運動と、取り出されたエネルギーの関係にのみ記録は残されている。
つまり「エネルギーの取り出された時刻=履歴の記録そのもの」なのだ。
それゆえ装置自身は破綻せずに、熱運動を有効なエネルギーに変換することが可能となるのである。