第七章 ダーウィンの忘れ物
パンのかび仮説
2006/08/29  

生物とは、最も興味つきない存在だ。

なぜ生物は存在するのか?
なぜ生物は生きようとするのか?
それはある意味で生物世界の頂点に立つ、私たち人間への問いかけでもある。 一方、エントロピー増大則とは、多少文学的な表現をするならば「死の法則」であると言えるだろう。 森羅万象は、もはやそれ以上変化することのない、最終的な静的な状態に向かって進行する・・・ この考え方をそのまま人の一生にあてはめると、人生とは最終的な状態である「死」に至る過程に過ぎない、ということになる。 それでも我々は子孫を残すことによって未来に「生」をつなぐではないか、と思われるかもしれない。 しかし、人の個体に死があるように、人という種全体にも、いつか死は訪れるのではないだろうか。 同様に、生物全体の死、地球という星の死、果てには宇宙全体の死までも、エントロピー増大則に従う限り、いつかは必ず訪れるはずだ。
そんな遠い将来のことはどうでもいい、というのも一つの考え方であろう。 しかし、”最終的な死から逃れることができない”という事実は、我々に一種の絶望感を与える。 それというのも我々は多かれ少なかれ、未来を信じて生きているからだ。 もし途中経過がどうであろうと最終結果が同一なのだとしたら、今行っている努力、選択、行為に何の意味があるだろうか。 「死」が動かし難い厳然たる事実なら受け入れる他にないのだが、ともすると「死」は我々生きている者を絶望の淵に駆り立てる、動かし難い重荷となってのしかかってくる。

現代の我々にとって、「進歩」はごく当たり前のこととして受け止められている。 昨日より今日の方が、今日より明日の方が、過去より未来の方が”より高みに昇る”ものだと、漠然と信じている。 歴史とは常に過去を越えて上昇するものであり、進化とはこれまでに無かった新しさを生み出すものだと、そう信じていることと思う。 しかし、エントロピーの法則に照らし合わせてみると、進歩というのは”自然の流れ”に反する、むしろ異端の概念だということになる。 それでは、我々が”上昇してゆく”と思っている向きの正体は何なのだろうか。

こんなことを考えてみて欲しい。 いま、月面上に一片のパンがあったとしよう。 月の上はほぼ真空に近いし細菌もいないので、パンはいつまでもパンのまま残っていることだろう。 同様のパンを地球上に持っていったらどうなるだろうか。 たちまちのうちに虫や細菌に食われて、水と炭酸ガスに分解することだろう。 パンの塊は、そのままの状態でいれば高い自由エネルギーを有している〜エントロピーの小さい状態にある。 そして、遅かれ早かれパンは最終的にエントロピーの大きな状態〜水と炭酸ガスに分解する。 しかし、月面上にはその分解を手助けするものが存在しない。 従って変化はごくゆっくりとしか起こらないだろう。 一方、地球上はどうか・・・ここには生物という名の、分解を促進する手段が大量に転がっているではないか。

生物の真の目的(?)は、生命圏を豊かに彩ることでもなく、進化の高みに昇ることでもなく、増してや神に近づくことでもなく、単にエントロピーを増大させる効率のよい手段を提供しているに過ぎないのではないか。 パンに付いたカビは、途中でどんな経過を経ようとも、最終的にはパン自体を食い尽くした後に消滅する。 これと同様に、人間というものもしょせんは地球というパンに巣食ったカビに過ぎないのではないだろうか。 もし人間の活動が無ければ、地中奥深く眠っていた放射性元素のエネルギーが急速に開放されることはなかったであろう。 そもそも生物というものは地上の資源を効率よく分解するべく発生し、今なおその分解速度を上げるべく進化を続け、最後に全てを食い尽くした後に消滅するように運命付けられた存在なのではないだろうか。 生物の活動が、どれほど表向き華やかで神秘に満ちていたとしても、その本質は「自然を効率良く分解するシステム」に他ならないのではないか。 よく考えてみて欲しい。 生物が活動すればするほど、確実に”分解”は進む。 仮に、生物が地球を食い尽くして他の星に移住したとしたら、その行為は風に乗って別のパンに飛び火したカビの胞子と何ら変わりない。 かくして生物は、行く先々を食い尽くしてゆく・・・
私は何も、あやしげな末世思想を説くつもりはない。 ただ、エントロピー増大則を自然の最も基本的な法則として位置付ける限り、上記の”生物観”は極めて妥当なものに思えて仕方ないのである。

話の焦点を我々人間の活動にあててみよう。 我々が無意識のうちに”良かれ”と信じている行いは、実は結果としてエントロピー生成を最大にする選択肢を選んでいるという気がする。 例えば我々は漠然と「人類という種の繁栄、子孫の繁栄」を望む。 ここで望み通り、地上が人間であふれかえったら、どういう状態が実現するだろうか? あるいはもっと小規模なレベルで、我々は「活発な経済活動、それがもたらす豊かな社会」を望んでいる。 しかしその望み通り、活発な大量消費社会が実現したら、その後には一体何が残されただろうか? この考えをさらに推し進めると、”建設が善であり、破壊は悪である”という常識は全く逆だということになる。 生物の最終的な目的〜目的と言ってさしさわりあるなら、最終的に達するべき状態〜は破壊の後に訪れる静寂であり、建設などという行為は全く自然の意志に反した行いということになるだろう。
我々は常に「生きたい」という願望を有している。 これは誰しもが認める。 しかし、その願望のさらに奥底には「死にたい、全てを無に帰したい」という願望が潜んでいるのではないだろうか。 表面的には輝かしい未来や建設的な行為を歓迎しておきながら、心の奥底では、建設の後に訪れる、さらに大きな破壊を期待しているのではないだろうか。

これは恐ろしい考え方だ。 しかし同時に、エントロピーの法則を信ずる限り、極めて納得の行く考え方でもある。 過去の文明の形骸を見るにつけ、人の行いとは結局は死に至る過程なのだという感にとらわれることがある。 過去に滅びた文明が、人の愚かさから発したのではなく、そもそも生物本来の〜というより自然本来の持つべき性質なのだとしたら・・・

私がなぜ「Maxwellの悪魔」にこだわってきたのか、本当の理由はこの辺りにある。 私は、まず「死」を恐れた。 次に、「生」を信じた。 「死の法則」があるなら、きっとどこかに「生の法則」があるだろうと信じたのだ。 ただそれだけでは、現実を無視した願望に過ぎない。 「死」は避けて通ることのできない厳然たる事実である。 この世には、しょせん絶対的な「死の法則」しかないのだろうか。 それとも、我々にはまだ、信ずるに足る何かが残されているのだろうか。 これは簡単には答えられない問題だ。
これまでのところ全く絶望的な答しか無かったこの問いかけについて、不確定分子モーターという新たな観点は初めて希望のある答を導き出した。 本論の終章では、この大きな問題について、私の力の及ぶ限りの答を探し出してみたいと思う。

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