序章 甦るMaxwellの悪魔
はじめに 〜 甦るMaxwellの悪魔
2006/08/15  

   「Maxwellの悪魔」というお話をご存じだろうか?
19世紀イギリスの物理学者、James Clerk Maxwell は「Theory of Heat(熱の理論)(1871)」という著書の中で、次の様なパラドックスを提起した。
But if we conceive a being whose faculties are so sharpened that he can follow every molecule in its course, such a being, whose attributes are still as essentially finite as our own, would be able to do what is at present impossible for us.
しかしながら、もし全ての分子のコースを追跡できるほどに研ぎ澄まされた能力を持った者がいると想像したならば、そのような者は、たとえ我々と同じく本質的に有限の属性を有していたとしても、現在の我々にとって不可能なことをやってのけるだろう。

For we have seen that the molecules in a vessel full of air at uniform temperature are moving with velocities by no means uniform, though the mean velocity of any great number of term, arbitrarily selected, is almost exactry uniform.
というのは我々が(既に)見てきたように均一な温度にある容器の中の空気は決して均一な速度で運動してはいない、たとえ任意に選んだ多数の平均速度がほとんど正確に均一だったとしても。

Now let us suppose that such a vessel is divided into two portions, A and B, by a division in which these is a small hole, and that a being, who can see the individual molecules, opens and closes this hole, so as to allow only the swifter molecules to pass from A to B, and only the slower ones to pass from B to A.
さてそのような容器をAとBという2つの部屋に分け、その仕切に小さな穴を開け、その(能力)者が個々の分子を見ることができて、穴を開けたり閉めたりできるようにして、速い分子だけをAからBに、遅い分子だけをBからAに通過することを許す。

he will thus, without expenditure of work, raise the temperature of B and lower than of A, in contradiction to the second low of thermodynamics.
その(能力)者はかくして、何の仕事の消費もなしに、Bの温度を上げAの温度を下げるのだが、これは熱力学の第二法則に反することになる。

簡単に言えばこういうことだ。
「もし分子をも操作する器用な指先と、知性を兼ね備えた悪魔の様な存在があったならば、 空気分子の熱運動からいくらでも利用可能なエネルギーを取り出すことが可能になるだろう。」

このパラドックスは、その後、多くの物理学者たちを悩ませて続けてきた。 熱運動から利用可能なエネルギーを無尽蔵に取り出す能力を持つ悪魔、これは即ち物理法則に反する永久機関ということになる。 このような存在が現実にあり得るとは到底考えにくい。 学者たちは、この悪魔のパラドックスのどこに論理的矛盾があるのか、解決するのに腐心した。 そして、問題の完全な解決を見るまでには、実に100年以上もの歳月が流れたのである。

  ・・・しかし、悪魔は根絶してはいなかった・・・

100年に及ぶ狩りの目を逃れ、悪魔は密かに生き続け、復活の時を待っていたのだ。 真っ当な物理学では、悪魔のパラドックスは既に片づいた問題とされている。 しかし、本当に全ての疑念が晴れたのだろうか?

ここで、多くの人が解決済みと信じている悪魔のパラドックスを、いま一度甦らせてみたい。 単に実現不可能な架空のお話ではいささか面白くない。 ここではあえて天の邪鬼的な立場、つまり悪魔を擁護する側の立場に立って話を進めたいと思う。

  悪魔は存在する。

つまり、分子の熱運動から利用可能なエネルギーを取り出す方法が存在するのだ。

「もしそんなことができたなら、熱力学の法則はめちゃくちゃになってしまうのではないか?」
「それは、実現不可能と言われて続けてきた永久機関なのではないか?」

悪魔と言えども熱力学の法則を犯すことはできない。 それでも悪魔が存在するとはどういうことか? 実は、悪魔と熱力学の法則とが共存できる狭い道がある。 物理法則が許す範囲内で、ほんのわずかな隙間ではあるが、悪魔の居場所がある。

改めて断っておくが、本論は永久機関〜第二種永久機関が実現できるといったお話ではない。 第二種永久機関は実現できない。 これは世界中の良識ある人々が認める、厳然たる事実である。 本論中でも随所で、第二種永久機関が実現できないことを論拠としている。 にもかかわらず、熱運動を温度差無しに直接利用する方法が存在する。 つまり、ここで言うMaxwellの悪魔は第二種永久機関とは別物なのである。 それは、全く何の制限も無く無尽蔵に利用可能なエネルギーを生み出す仕組みではない。 熱力学の法則のために、悪魔の挙動には強い制約が課せられている。 この制約を含めて悪魔の姿を思い描くと、どうも永久機関とは呼び難いものに収斂する。 それでも、いかに熱力学の法則が絶対であっても、悪魔を完全に根絶することはできなかった。 悪魔は生き残ったのである。

それでは、ここで言う「強い制約」とは一体何なのか?
どこまでが可能で、どこからが不可能なのか?
これらを明らかにしてゆくのが本論の目的である。

本論で言わんとする可能と不可能の境界線は、実に微妙な場所に位置している。 歯がゆい話だが、たった一言で結論を言い切るのはなかなか難しい。 また、結論の真偽はともかくとして、ここでの話を理解するためには熱・統計力学に関する予備知識が必要となってくる。 本論では、まず必要となる予備知識を説明する。 その上で、悪魔は実現可能だという挑戦的な議論を試みよう。

最初の提唱者のMaxwellも、悪魔の存在を頭から信じていたわけではあるまい。 これまでの過去に、悪魔のパラドックスから永久機関は生まれなかったが、熱・統計力学と情報理論の接点についての深い考察が成されてきた。 この意味で、Maxwellの悪魔は充分にその役割を果たしてきたわけだ。

今ここで、私は議論され尽くしたパラドックスを、いま一度提起しようとしている。 ここから短絡的に永久機関が生まれるとはにわかに信じ難いが、ひょっとすると何らかの新しい視点が開けるかもしれない。 さらにひょっとすると、夢のような「分子モーター」の実現につながる可能性もゼロではない。

本論の内容は、実験事実に基づく学術的な報告ではなく、単なる作業仮説に過ぎない。 統計学の帰無仮説のように、全ての文末に「〜という可能性は否定されない」という句を付け足さねばならないだろう。 しかしそれでは、あまりいにも言い訳がましく、歯切れが悪い。 いかなる内容であれ、不可能を可能にするストーリーには、夢がある。 願わくば、そんな夢を大切にしたいものである。

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