第七章 ダーウィンの忘れ物
守るべきもの
2006/08/29  

優れたものが生き残り、劣ったものは淘汰される。 ダーウィンが示したこの考えは、そのまま安直に人間社会にも適用された。 社会的ダーウィニズムである。

「優れた強い者が、劣った弱い者より多くの権利を享受して然るべきではないか。 その方が社会全体が進化するはずだ。」
ダーウィンの誤った拡大解釈は、強者を正当化する理論としてまかり通ってきた。 今日、優勝劣敗が露骨に説かれることはさすがに少なった。 しかし、果たして社会的ダーウィニズムは完全に過去の亡霊であったと言い切れるだろうか。 ダーウィニズムが自由主義経済にとって都合の良い理論を提供していることは、今日であっても変わりない。 ダーウィン自身の思惑を離れ、理論はどこまでも一人歩きを続ける。 自由競争を善とし、革新を善とする思想は、現代社会に住む我々が好む好まざるに関わらず受け容れねばならない規範となっている。

もし生命の営みが偶然と淘汰だけに負っていたのであれば、結局のところ我々はダーウィニズムの呪縛から逃れられないと思う。 そこには自己の利益以外、守るべきものは何も無いからである。 一体いつから生命はこんなに薄っぺらな存在に成り下がったのだろうか。 何かが違う、と私は思う。 偶然から生じたのではない、確固たる何物かを生命は守り続けているのだと思いたい。 その何物かについて、私はあまり科学的に説明することはできない。 半ば希望の入り交じった直感的な類推から、私は生命というものをこんな風に考えている。

生命が守り続けている確固たる何物かとは、ほんのひとかけらの情報である。 その情報は、少なくとも生命の始まりから、ひょっとすると宇宙が始まった当初から与えられていたのである。 その情報のことを最初からあったという意味で、私は「特殊な初期条件」、あるいは「初源情報」と呼んでいる。 初源情報の持つ方向性自体に特別な意味は無い。 大切なのは、初源情報が何らかの方向性を有していること、つまり対称性を破っている点にある。 対称性を破った一片の情報さえあれば、生命はエントロピー増大の傾向に流されることなく、独自の方向性を持ち続けることができる。 そればかりか、不確定分子モーターの原理を通じて、生命は自分以外のエネルギーの流れを自身の持つ方向に振り向けることができる。 つまり、生命はエネルギーの流れを不確定ながらもコントロールすることができるのである。 仮に生命のコントロールするエネルギー流の大半が失われたとしても、最初に有していた一片の情報を失わない限り、生命は再びエネルギーの流れを作り出すことができる。 ところが、もし初源情報が失われると大変なことになる。 非対称性の根元が消失するので、生命は消滅する。 それゆえ、生命は何が何でも、それこそ命にかけても初源情報を守らなければならない。 たとえ他の何物を犠牲にしたとしても、初源情報を失わない限り、生命は何度でも甦る。 生命とは、ほんのひとかけらの初源情報を、大切に、大切に守り続けてきた潮流のことだったのである。

それでは、その「初源情報」は一体どこに記録されているのだろうか。 DNAの中に刻み込まれているのだろうか。 もしそうだとすると、どうやって最初にDNAができたかについての説明がつかない。 おそらくどれほど個体の中を探したところで、初源情報の在処は見出せないであろう。 初源情報は個体の中にあるのではなく、生命を取り巻く環境全体に、おそらくは宇宙全体の構造の中に埋め込まれている。 そのように私は考えている。 例えば5章−9節で触れたように、宇宙全体を1個の巨大なコーヒーカップに見立て、それが全体として一つの向きに回っていたとしたらどうだろうか。 つまり、宇宙全体の角運動量がゼロではなく有限の値を有していたとすれば、我々には宇宙全体の回転を止める術が無い。 そして宇宙に在るものは全体として、その回転の影響を受けることになる。 あるいは、(実際とは異なるが)宇宙を有限長の振動子のようなものと考えれば、ある特定の波長だけしか存在を許さない、又は特定の波長だけがより多く存在する、といったことも考えられるだろう。 また、宇宙には誰しもが認める際だった非対称性を持つ流れが存在する。 それは、時の流れである。 時間は確実に一方向にしか進まない。 しかし、なぜ時間は逆行しないのかと改めて問われれば、それは「宇宙開闢の当初から与えられていたのだ」としか言いようがないであろう。 私は、生命の持つ方向性が、宇宙の回転や波長の偏在、あるいは時間の流れから直接に導かれると主張しているのではない。 上に挙げた幾つかの例のような形で、宇宙の構造の中に特定の情報が刻み込まれているのではないかと想像しているのである。 生命の潮流をとことんまで理解しようとするならば、DNAやタンパク質だけを追いかけてもいずれは限界に突き当たる。 最終的には、その根元的な理由を宇宙全体の構造に求めることになるだろう。

夢想にも似た生命と宇宙についてのお話が真実なのかどうか、今のところ確かめようがない。 確かめるにしてはあまりにも漠然としているし、科学的でも理論的でもない。 それでも、非論理的なことは承知の上で、私は「宇宙全体に埋め込まれた情報」を仮定した方が倫理的には優れていると信ずる。 生命には「守るべきもの」が必要だ。 利己的な自己保存しか持たない生命はみすぼらしい。 利己的な自己保存だけでは、なぜ他の生命を奪ってはならないのか、なぜ劣った生命であっても生きながらえねばならないのか、なぜ自殺してはならないのか、全く説明がつかないではないか。

生命の持つ方向性、宇宙全体の持つ情報について、いずれはオカルトや夢物語ではなく真面目な科学の問題として取り上げられる日が来ることを期待したい。 信じるものについて語ることは極めて難しい。 信じるものについて語れば、冷笑的に扱われるか、危険思想と疎まれるか、超え難い抵抗の壁に出会うかのいずれかに至る。 それは昨今の金利主義や世の中の仕組みのせいではない。 昔から人の性とはそういうものだったのである。 それでも歴史を振り返れば、正しいものは最終的に生き残り、間違ったものはいつしか消えてゆく。 ダーウィンの思想は、むしろ思想というものに対して正しく当てはまっているように見える。 そして大抵の場合、思想の自然選択には数十年、数百年といった長大な時間を要するのである。 私は、己の語ってきたことが正しいかどうか、私自身によって判断を下すことはできない。 最終的な判断は、最後まで辛抱強く私の言につきあって頂いた読者に委ねられるべきであろう。

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