生命は模倣し得るか
2006/08/29
生物はいかにして現在ある姿になったのか。 その答はダーウィンによって示された。 生物は、より単純なものから進化して現在の姿となったのである。 進化はどのようにして起こるのか。 それは突然変異と自然選択から成る。 進化論について、よく「ダーウィンは間違っていた」といった議論を見かけることがある。 今日でもダーウィンがやり玉に上がるということは、とりも直さずダーウィンの思想が今なお有効であることを示している。 センセーショナルなタイトルで飾られた内容をよく見ると、それらはダーウィンの改良版であったり、当時まだ無かった分子生物学の知識を織り込んだ再解釈に過ぎないことが多い。 大枠において、我々は「突然変異+自然選択」以上の答を知らないのである。 突然変異+自然選択、この考え方自体は何ら難しいものではない。
人工生命の基本的な考え方は、進化の方法そのものだ。
1.まず、適切な長さのデータの塊を多数用意する。
2.データを適当に「かき混ぜて」変化を与える。
3.個体を自然選択にかける。 ※.実際の生体が遺伝情報に基づいて体を形作るように、コンピュータの上でもデータに基づいた「実体」を想定することがしばし行われる。 コンピュータ上における「実体」は、一般には「表現型」と呼ばれている。 表現型とは、つまりデータの数字が具体的に何を意味しているか、という対応ルールのことだ。 例えば、データの1個目の数字が個体の身長を表し、2個目が体重、3個目が手の長さ、4個目が足の長さ・・・といった対応ルールを定める。 そして、適応度の評価は表現型に対して行う。 例えば手足の長さと体重から走行のシミュレーションを行い、より足の速い個体を優先させるといった処理を行う。
4.以降、2.3.の処理を繰り返す。 まず、ある種の問題が上手く解けるようになった。 特に「数多くの組み合わせの中から、条件に良く適合したものを選び出す」といった種類の問題に威力を発揮した。 最適な時間割の作成、巡回セールスマン問題、ナップザック詰め込み問題などである。 一般的に組み合わせの問題を解くには、全ての組み合わせをしらみつぶしに調べるしか方法が無い。 しかし構成要素数が多い場合、全ての組み合わせは莫大な数となるので調べ尽くすのに大変な時間と労力を要する。 そうした局面で、遺伝的アルゴリズムは答を探し出すための1つの手段となり得る。 次に、生命の進化を模倣するプログラムが登場した。 有名なものに「Tierra」がある。 Tierraはスペイン語で地球という意味。 デラウエア大学の進化生物学者トム・レイが制作したプログラムだ。(今は日本の京都に住んでいるらしい) 地球生態系をモデルとした仮想的なコンピュータ上に、「デジタル生物」と呼ばれるコードを配置した、仮想的な生態系となっている。 「デジタル生物」は以下の挙動を行う。
ここまで結果が出ると、コンピュータ上で「生命の模倣物」ができる日もそう遠くないように思えてくる。 生命とはダーウィンの進化論、「突然変異+自然選択」によってできたものである。 そして、「突然変異+自然選択」という基本原理さえ守れば、既存の生命とは異なる全く新しいタイプの生命を作り出すこともできるのではないか・・・
人工生命の将来がどうなるかは分からない。
ひょっとすると近い将来、我々の友人となるような「新デジタル生命」が誕生するのかもしれない。
しかし夢を壊すようではあるが、私はここで批判的な意見を述べておきたい。
以下は全くの私感なのだが、「人工生命」は、それより少し前に流行した「人工知能」と似たような経緯をたどるのではないかと思うのである。 Tierraだけではない。 およそ人工生命にとって最大の悩みどころは、ある一定の限界以上には進化しない、ということではないだろうか。 遺伝的アルゴリズムの場合、個体の評価基準はプログラマーが与える。 そして進化、あるいは最適化の極に達した時点で事実上の計算は終了する。 人工生命の場合、進化の傾向は制作者が意図的に与えたものではないかもしれないが、結果的にはシステムに内在する傾向に従って事態は進行する。 そして、与えられた傾向を越えて進化が持続することは極めて困難に見受けられる。 熱統計力学の教えは、つまるところシンプルだ。 閉じた系は、極めて多数ではあるが有限の組み合わせの中をくまなく巡回する。 そして、その組み合わせの大多数を占める最もありふれた状態に、系は最も長く留まる。 その最もありふれた状態が、事実上の系の終着点となる。 最適化の答が1つの点、あるいは安定した静的な状態になるとは限らない。 結果が一定周期で振動したり、発散したり、カオス的な振る舞いを示すケースもある。 では、そのカオス的振る舞いの中からより高度複雑化した何物かが創発するのだろうか。 これは難しい問いかけだが、いまのところ私は否定的な見解を持っている。 人工生命のシミュレーション、ライフゲーム、セルオートマトン、確かにこういった一連のものは予測のつかない複雑なパターンを示す。 しかし、これらの結果はどこまで行っても「予測のつかない複雑なパターン」であって、それ以上でもそれ以下でもない。 平衡状態にある静止した気体であっても、見方によっては「予測のつかない複雑なパターン」なのだと言える。 多体から成る分子運動は、個々の分子に着目する限り単純な計算では予測のつかない、極めて複雑な運動だ。 しかし、その複雑な運動の集合体を遠くから粗視的に見れば、やはり静止した気体以上にはならない。 複雑なパターンが「生きている」と主張するか、ただの模様にしか見えないと主張するかは、もはや個々人の嗜好や哲学的解釈の議論であろう。 原理的に考えるなら、遺伝的アルゴリズムと気体分子運動に本質的な差異はないのではないか。 ある一定の空間内のあらゆる組み合わせを遷移する、という点において両者は同一だ。 両者に違いがあるとすれば、最終的な状態に達するまでの緩和時間(あるいはステップ数)であろう。 全くの偶然を待つだけのランダムな遷移よりも、最適解に向かう傾向を備えた淘汰の仕組みの方が、緩和時間が圧倒的に短い。※ かつて、コンピュータに脳細胞の真似をさせたところ、パターン認識等に優れた興味深いプログラムができあがった。 できた当時は、これこそが人工知能ではないかと多くの人が期待を寄せた。 今日、ニューラルネットワークは最適化アルゴリズムの1つとして実用的に利用されている。 しかし、それを人間に比肩するような人工知能と呼ぶ人はほとんどいない。 遺伝的アルゴリズムも、ニューラルネットワークと似たような状況にあると思う。 プログラミングの1手法として研究する価値は十分にある。 しかし「かき混ぜて、選ぶ」だけの単純なからくりで生命ができあがるとは、私には到底思えない。 真剣に人工生命に取り組む人に対してこんなことを語れば、意気消沈するか、怒り出すかもしれない。 私は人工生命が全く無駄な試みだと言っているのではない。 むしろ、人工生命は極めて根元的な問題を突きつけているものと思う。 現状の人工生命には、まだ何かが足りない。 それが何であるかは、全く想像が付かない。 およそ問題というものは、明確な形に定式化できた時点で半分解かれたにも等しい。 ところが人工生命の場合、何が問題なのかさえはっきりと分かっていない。 人工生命の探求者は、ここで思い悩むことになる。 生命への道は遠く険しい。
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