第六章 やわらかい分子機械
補助動力としての熱ゆらぎ
2006/08/29  

生物は化学エネルギーと熱ゆらぎの双方を織り交ぜて利用している、これが本論で掲げる仮説である。 それでは、この2種類のエネルギーを同時に利用する仕組みとは一体どのようなものだろうか。 前章まではエネルギー供給源として専ら熱ゆらぎのみを考えてきたが、ここではもう一歩現実に近づいて、熱ゆらぎ以外のエネルギー供給源がある場合を取り上げよう。 熱ゆらぎのみの場合より、他のエネルギー供給源を用意した方がずっと条件は緩い。 それゆえ極端な仮定や無理な部分も少なくなる。

化学エネルギーの様に確定的な形で利用可能なエネルギー源を、ここでは主動力μと呼ぶことにしよう。 それに対して熱ゆらぎは(不確定分子モーターの原理に従えば)不確定な形でしか利用できない。 熱ゆらぎのことをここでは補助動力qと呼ぶことにする。 いま、熱ゆらぎを利用している何らかの系、例えば仮に筋肉がそうであったとしよう。 系から取り出されるエネルギーが確定的に安定したものではなく、いくらかのゆらぎを含んでいたとする。 系から一定時間内に取り出されるエネルギーEについて、そこに含まれるゆらぎが情報エントロピー換算でSであったとすれば、

出力E
  = 主動力μ + 補助動力q
  = 主動力μ + 不確定に起因するエネルギーTS
となる。 主動力μ と 補助動力q の比率には、特に物理的な制限が課せられているわけではない。 主動力だけで動作する機械は、理論上ゆらぎを含まない「硬い機械」ということになる。 その反対に、前章までに挙げた理論上の不確定分子モーターは主動力μ = 0の極限である。 現実的には主動力の全く無い、完全な「やわらかい機械」の実現は困難であろう。 主動力μ:補助動力qの比率がどの程度であれば実現可能なのか、いまのところ想像に頼るしかない。 理屈の上では熱ゆらぎの方が主動力を大きく上回るケースも考えられなくはない。 しかし、1つの理由によって補助動力が主動力を上回らないケースの方が容易に実現し得ると考えられる。 その理由とは次の通り。
「主動力を熱ゆらぎの観測に用いた場合、主動力が熱ゆらぎを上回っていれば、観測装置を熱ゆらぎによる攪乱から保護する必要がない。」

主動力μ > 補助動力q という前提のもとで、現実的に動作する分子モーターモデルを考察しよう。 以下は第2章、第3章で述べたモデルをより現実に即した形で説明し直したものである。 熱ゆらぎから利用可能なエネルギーを取り出す仕組みについては、以前の章を踏襲して「ただ1個の気体分子が入った箱」を考える。 現実にはこれがストレスのかかったタンパク質分子であるかもしれず、電荷の偏った素子であるかもしれない。 気体分子の入った箱とは単純化したモデルであると捉えて欲しい。 次に、気体分子の位置を測定するための信号を考える。 現実の生物において、この信号はおそらくATPによってもたらされるのであろう。 つまり、ATPによってもたらされる化学エネルギーは直接出力に変換されるのではなく、熱ゆらぎを測定するために費やされると考えるのである。 実際のATPの分解反応は複雑な過程を経るのだが、ここでは詳細に立ち入らず、何らかの方法で熱ゆらぎの測定が行われるのだと仮定しよう。 測定によって、例えば熱運動する分子の位置情報が明確になったのだとする。 自由に熱運動している分子の位置が特定できれば、そこから力学的な仕事を取り出すことができる。 しかし、得られた仕事は測定に投じたエネルギーを上回ることはない。 測定によって熱運動する分子の位置が全空間の1/Nに限定された代わりに、測定に投じたエネルギー自体は当初のN倍の場合の数を有することになる。 測定という行為は、N通りという場合の数を測定対象の分子から測定信号に移すことに他ならない。 熱運動する分子から仕事を取る代わりに、測定信号を犠牲にしている。 単に仕事を得るのが目的であるならば、最初から測定など行わずにエネルギーを直接利用した方が無駄が少ないはずだ。 これでは熱運動を介する利点はどこにも見出せない。

ここでN通りに分岐した信号が本当に利用できないものなのか、改めて考え直してみて欲しい。 例えば2通りに分かれた信号は、1通りに確定したものに比べて価値は低いが全くの無価値という訳でもない。 もしエネルギーの利用に際して「2通りに分かれている」ことがさして重要でなければ、2通りの状態のままで利用することもできるはずだ。 2通りの状態のままで利用する、ということには2つの意味がある。

1.空間的に2通りある。
  つまりA,B2カ所の出力があって、そのどちらから出力されるかわからない。
2.時間的に2通りある。
  つまり出力されるタイミングが異なる。
この2つのうち分かりやすいのは2.の方だ。 例えば利用目的が何か物体を動かす作業だとすれば、物体の移動が1秒後になるか、2秒後であったかの違いは多少時間にルーズでありさえすれば目をつぶれるであろう。 1.の場合は2.ほど自明ではないが、例えばBの出力は全く無視してAの出力だけを利用する、という方法が考えられる。 この方法によっても、目的がいつになったら遂行されるのか不明という点に目をつぶれば、全くの利用不能ではない。 重要な点は、空間的、時間的に不確定な出力に対して「大目に見てやる」ことなのである。 もし2通りに分かれた出力を厳密に1つに合わせようとすれば、せっかく測定によって稼ぎ出した熱ゆらぎ由来のエネルギーを無駄にすることになる。

さて、2通りに分かれた信号をそのまま出力として用いるためには、信号のエネルギーはどれ程の大きさを必要とするだろうか。 信号エネルギーが熱ゆらぎにうち負けない為には、少なくとも kT ln 2 より大きくなければならない。 一般に、N通りに分かれた信号が熱ゆらぎにうち負けない為には kT ln N だけの大きさが必要だ。 一方、観測によって熱ゆらぎから得られるエネルギーの大きさは kT ln N である。 これが、上で「主動力μ > 補助動力q のケースが容易に実現できる」とした理由だ。 もし主動力 = 信号エネルギーを補助動力より小さく抑えようとすれば、信号エネルギーの出力にあたる部分を熱ゆらぎによる攪乱から保護する必要が生じる。 例えば1.空間的に2通りある場合を考えて、Aから信号が発された場合にはBは熱ゆらぎに接しないように閉じておく必要がある。

同様に2.時間的に2通りある場合には、出力しないタイミングには出力を閉じておく必要がある。 問題はいかにして使用しない側、あるいは使用しない時間だけ出力を閉じるかである。 まず、このように熱ゆらぎからの保護が必要な場合には、1.空間的にN通りといった方法は成り立たない。 なぜなら、系にはAを閉じた場合とBを閉じた場合の2状態ができるからだ。 このA,Bの2状態を1状態に戻すには相応のエネルギーが必要になる。(第4章 06_時間と空間の違い 参照) もし出力の開閉が無かったならば系が2状態にはならない、という点に注意されたい。 1.空間的な方法が使えるのは「主動力μ > 補助動力q」という条件下においてだけなのである。 2.時間的な方法であれば、不必要なタイミングには出力を閉じておく上手い方法が存在する。 測定し終えた補助動力の側に、信号エネルギーの出力の開閉を担わせるのだ。 熱ゆらぎの測定が終わった直後の状態で、測定し終えた補助動力の系は信号エネルギーがいつ出力されるのかを「知っている」。 そこで、信号エネルギーを出力した直後に補助動力の出力を行えば、信号出力後の後始末は補助動力に帰することができる。 エネルギーが出力するタイミングは補助動力の出力に依存することになり、結果的に時刻不定となる。 (ここでいっそのこと信号エネルギーは出力せずに閉じた系内を循環させようというのが、第2章で登場した「悪魔の装置第一号」だ。)

以上の様に、主動力μ > 補助動力q という条件下において、熱ゆらぎの利用はかなり現実的かつ容易なものとなる。 (容易といっても比較の問題ではあるが。) 主動力μ < 補助動力q という系も考えられなくはないが、実現はかなり難しい。 主動力μ = 0 という極限は、もはや理論上にしか存在しないであろう。

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