第四章 情報エントロピーの力
情報力の上限
2006/08/24  

熱から得られる利用可能なエネルギー、情報力とは何の制限もない、無限のものなのだろうか。 それとも、物理的に何らかの限界が存在するのだろうか。 1つの制限はこれまで見てきたように、情報力は不確定であるということだ。 情報力の作用する時刻は、例えば1秒後であるか、2秒後となるか、予め言い当てることはできない。 しかし、ここで1秒、2秒と言ったのは一例に過ぎず、これが0.1秒、0.2秒であっても構わない。 であれば、さらにこれが0.00000001秒、0.00000002秒であってもよいはずだ。 この調子で時間の間隔を極限にまで縮めれば、ほとんど一瞬の内にいくらでも情報力が引き出せることになる。 時間の幅がほとんど1点にまで縮めば、それはもはや不確定とは言えないであろう。 もしこれが正しければ情報力に物理的な限界は無いということになるのだが、果たして本当にそうなのだろうか。

もし時間が連続的なものだとすれば、理論上、情報力の上限は存在しないことになる。 しかし、もし時間に最小単位があるのだとすれば、一定時間内に取り出される情報力にも自ずと上限が定まる。 量子力学によれば、時間xエネルギーの大きさには実質的な最小単位が存在すると言う。 有名な不確定性原理である。

Δt・ΔE = h
「時間xエネルギー」という量は、情報力の見積にはぴったりだ。 この最小単位を用いて、1秒間あたりに得られる情報力の最大値がどの程度になるのか試算してみよう。 (以下の内容は「はじめに、3つの条件(2)」と同じです)

ここではまず以下の状況を取り上げよう。 「エネルギーが次に取り出されるまでの待ち時間が1単位時間後か、2単位時間後かのいずれかわからない」場合。 要は出力パターン数が2パターン=1bitとなる、最も基本的なケースである。 このとき1サイクルに取り出されるエネルギーの大きさは

ΔE <= kT ln 2
不確定性原理
ΔtΔE = h
の要請から、1単位時間の長さΔtは少なくとも次式より大きくなる。
Δt >= h / kT ln 2
このΔtから、1秒間は最小単位時間がいくつ分に相当するか、つまり最小単位時間の「クロック数」S を求めると
S <= 1/Δt = ΔE / h = kT ln 2 / h クロック
となる。

エネルギーは、最速で1クロックに1回、最も遅い場合で2クロックに1回取り出される。 最も多くエネルギーが取り出される状況は1クロックに1回ずつ、たて続けに取り出される場合である。 反対に最も少ない状況は2クロックに1回ずつ取り出される場合である。 最多の場合と最小の場合では、取り出されるエネルギーの大きさに2倍の開きがある。 最多の場合、1秒に得られるエネルギーの最大値は

Max. S * ΔE <= (kT ln 2 / h) * kT ln 2
最小の場合は上の半分となる。
Min. S * ΔE <= (kT ln 2 / h) * kT ln 2 * 1/2

   1分子が1秒間に稼ぐことのできる利用可能なエネルギーの最大値

実際の数値をあてはめてみると、次の様になる。

Planck's constant = 6.626068 × 10^-34 (m^2 kg / s)
the speed of light = 299 792 458 (m / s)
Boltzmann's constant (k) = 1.38 × 10^-23 J/K (joules/kelvin)
絶対温度: T(K)=t(℃)+273.15  -- 気温20℃ = 293.15K
ln(2) = 0.693147181
最大のケースで
(kT ln 2 / h) * kT ln 2
= (1.38 * 10^-23 * 293.15 * 0.69 ) ^ 2 / (6.63 * 10^-34)
= ( ( 1.38 * 293.15 * 0.69 ) ^ 2 / 6.63 ) * (10 ^ ( -23 -23 + 34 ) )
= 11752.29 * (10 ^ -12)
= 11.75 * (10 ^ -9) (joules/s)
最小の場合は、上の最大のケースの半分
5.88 * (10 ^ -9) (joules/s)
両者の平均をとれば
8.12 * (10 ^ -9) (joules/s)
この数値が具体的にどの程度のものなのか、代表的な化学反応と比較してみよう。

H2(気) + 1/2 O2(気) -> H2O(気)  約250 kJ/mol
水分子1個あたり 4 * (10 ^ -19) J

C(個) +O2(気) -> CO2(気)  約400kJ/mol
二酸化炭素1個あたり 7 * (10 ^ -19) J

CH4(気) + 2 O2(気) -> CO2 + 2 H2O  約800kJ/mol
メタン1個あたり 13 * (10 ^ -19) J

代表的な激しい化学反応の生成熱はおよそ数百kJのオーダーである。 反応速度は1秒よりもずっと短い。 化学反応の時間を大ざっぱにピコ秒(10^-12 秒)程度とすると、情報力は化学反応の約1/100程度と見積もれる。

もっと穏やかな化学反応と比較するとどうだろうか。 生体のエネルギー源であるATPの加水分解を例にとってみよう。

ATP -> ADP 約60kJ/mol
ATP1分子あたり (10 ^ -21) J
ここで、反応速度として上と同じ1ピコ秒(10^-12 秒)という数字を採用すると、ATPの加水分解は情報力と同程度のオーダーになる。※ 大ざっぱな見方をすれば、情報力には「緩やかな化学反応程度」の大きさが期待できるであろう。 情報力のエネルギー源は常温(20度程度)の分子運動である。 激しい化学反応の生成熱は常温より1〜2桁大きい。 一方、生体内の穏やかな化学反応は常温下で進行している。 このことを考えれば、緩やかな化学反応程度という評価は妥当なものに思える。 つまり、情報力によってガソリンエンジンの代替品を実現するのは難しいが、人力程度の出力は実現できる可能性があるわけだ。


不確定性原理の式
  Δt・ΔE = h
はシュレーディンガーのガンマ線顕微鏡の思考実験から得られたものだが、これとは別に演算子の交換関係から得られた次式が用いられることもある。
  Δt・ΔE = 1/2 * h~(エイチバー) = 1/2 * 1/(2π) * h
上の式と下の式では約6倍程度の違いがあるので、下の式を用いた場合、情報力の上限も6倍程度アップすることになる。 ただ、ここで重要なのはプランク定数レベルの大きさになるということであって、それ以上の子細に深い意味はない。


もちろん実際の生体内でのATP分解は多段階の反応であり、反応速度の見積りはこれほど単純ではない。 反応速度の見方によってゼロの1つや2つは変わってしまうので、ここでの数値は定量的な根拠にはならない。
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