第二章 1分子気体パズルに挑む
試行錯誤その1(続)〜複数の悪魔 遅延時間版
2006/08/22  

前節で紹介した”複数の悪魔”にはもう一つのレパートリーがある。 「信号を空間的にではなく時間的に識別する」というものだ。

前節の”複数の悪魔”では、部屋の中の分子の状態に応じて測定信号が「空間的に」異なる場所に飛んで行くことを考えた。 分子が1番目の部屋にあれば測定信号はスイッチAを押す、2番目の部屋ならスイッチBを、3番目ならCを、といった具合に。 それゆえ使い終えた信号の出口もA、B、C、と複数できるので、永久機関としては成立しないということであった。 何とかして出口を1つにすることはできなだろうか。 そこで思い付いたのが、空間的な位置の違いではなく時間的なタイミングの違いを利用するというアイデアだ。 まず、出口を1つにするために信号の通る道筋はあくまでも1つにする。 たった1つの道筋でどのように分子の状態を伝達するかというと、信号の通過する時間を変えるのである。 例えば、分子が1番目の部屋にあれば信号は1秒後に到達、2番目の部屋なら2秒後、3番目なら3秒後、といった具合に。

ただ1本の電線を用いて情報を伝達する様子を思い浮かべてみよう。 一昔前には単線式モールス信号という通信方法があった。 (単線式というのは、2本のケーブルを敷くのが大変なのでケーブルは+側1本だけにして−側はアースにつないだものである。光ファイバーに何十もの回線を通せる現代の通信事情から見ると何ともちゃちな方法ではあるが、とにかく通信はできる。) 単線モールス信号の装置を用いて、できるだけ少ないエネルギーで情報を伝達するにはどのような方法で通信したらよいだろうか。 仮に、電鍵を押した時だけ電流が流れるのだとすれば、できるだけ電鍵を押さずに通信する方法を考えてみて欲しい。

私が考えた最も省エネの通信方法は”トン”2つだけであらゆる情報を送るというものだ。 1回目のトンが開始、2回目のトンが終了、受信者は2つのトンの間に何秒かかったかを数える。 例えば、1秒ならA、2秒ならB、という風に決めておけば1〜26秒でアルファベット1文字を送ることができる。 ではアルファベット2文字を送るにはどうするかというと、2文字のアルファベットを27進数に見立てて、10の位(27の位?)を1文字目、1の位を2文字目とするのである。 例えば”AA”は27+1=28秒、”CB”は27*3+2=83秒といった具合である。 この方法なら、アルファベットで書かれたものなら手紙だろうと百科辞典だろうと何だって送れる。 (空白文字は28秒としよう。) ただし、百科辞典を送ろうと思ったら何百万年も(あるいはそれ以上)かかってしまうのだが。 とにかく理屈の上では”トン”2つだけでいかなる情報も伝達できる。

この「省エネ通信法」を Maxwellの悪魔に応用したのが、先に述べた「信号を時間的に識別する」ということなのである。 ケーブル即ち信号の通る道筋は1本、信号自身はどれほど情報量が増えてもトンが1個で済む。 (上で初めと終わりの2個と言ったが、連続して前回の通信が終わったらすぐ次を始めることにすれば1回の通信に1個のトンで充分であろう。) 信号が伝達する情報は熱運動する分子の位置、信号を受けた装置は受け取った情報をもとに分子からエネルギーを取り出すという算段を立てる。 分子の位置に関する情報が多ければ多いほど得られるエネルギーは大きくなる。 一方どれほど情報が増えても信号に費やすエネルギーは「トン1個分」の一定値なのだから、情報を増やしてゆけば(時間はかかるけれど)得られるエネルギーの方が費やすエネルギーをいつかは上回るはずだ。

熱雑音のある中で、大量の情報をごくわずかのエネルギーで伝達することは、第二種永久機関を作ることと同じ意味を持つ。 Wの情報量をkTWより少ないエネルギーで伝達することができれば、永久機関を作ったといってもかまわない。 2つの”トン”の間にかかった時間を用いて通信を行なえば、消費するエネルギーは”トン”という信号1個分だけだ。 ならば、この「省エネ通信法」こそが本当に悪魔の秘密なのだろうか。

残念ながら今度の場合もやはり見落としがある。 2つの”トン”の間にいくらでも多くの情報を盛り込める・・・これは嘘ではない。 問題は、1個の”トン”という信号の大きさである。 例えばこの方法で大量の情報を送るため、2つの信号の間隔が100年も開いたとしよう。 その100年間、通信ケーブルは熱雑音にさらされるので、相当大きなノイズを拾う可能性がある。 通信にかかる時間が長くなればなるほど、より大きなノイズを拾う危険性が高まる。 100年もの間、音沙汰無しに放っておいたのだから、100年たったそのときは相手にはっきり目立つようにうんと大きな信号を送らねばならない。 送ろうとする情報量が多ければ多いほど時間がかかり、時間がかかるほど信号を大きくしなければならない・・・ということで、結局この通信方法を用いてもエネルギーあたり無尽蔵に情報を送ることはできないのである。

このことを悪魔の装置にあてはめて考えてみよう。 信号の通る道筋は一つだけなのだから、外界の熱ゆらぎとの接点〜出口は確かに1箇所だけだ。 しかし、信号の通過時間を用いて情報を伝達しようとすれば、信号がやってこない空白の時間が開くはずだ。 その間、出口は開けっ放しで熱ゆらぎと接触し続ける。 開けっ放しの時間が長ければ長い程、出口から熱ゆらぎが装置内に逆流してくる機会が増すことになる。 開けっ放しが困るのなら出口に扉を付けておいて、信号が出るときだけ開けばよいと思うかもしれない。 しかし、一体誰が扉の開閉を行なうのだろうか。 扉をいつ開けるのかを知るには情報が必要なので、これはいたちごっことなる。

全章の”複数の悪魔”が空間的に出口を増やしたのに対し、今回は時間的に出口のチャンスを増やしたのだと言えよう。 「空間がだめなら時間でやってみよう」という発想は大事だが、悪魔の装置の場合はどちらも不可能なようだ。

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