第一章 なぜ永久機関は実現不可能なのか
Szilardの悪魔
2006/08/21  

熱と仕事の違いとは何であろうか。 日常の感覚からすれば、これは愚問に思えるかもしれない。 熱とは暑さ寒さのことであるし、仕事はどれだけ力を使ったかのことだからである。 しかし、この当たり前の事実も分子の大きさで眺めると、それほど当たり前とは言えなくなってくる。 熱というのはでたらめな分子運動の集まりである。 物体に仕事を加えた結果も運動なのだから、両者は本質的には同じものである。 一つの違いは、仕事は目に見える大きさだが、熱運動は非常に小さく目に見えないという点だろう。 ならば(非常に小さい仕事)=(熱)といえるのだろうか。 そうではない。 熱と仕事の間には、大きさ以外にもっと決定的な違いがある。 その違いとは「仕事は出方がわかっているので直接利用可能だが、熱運動は全くのでたらめで直接利用できない」ということである。

前の節で「ばらばらな熱運動の向きをそろえる方法」を考えて、それは不可能だということを述べた。 気体分子一個で回転するような風車を作ったとしても、右に回るか左に回るかわからないのでは役には立たない。 しかし、仮に飛んでくる分子の向きがあらかじめ予言できたとしたら話は違う。 その場合、分子の風車は充分役に立つことになる。 例えば、分子がいつも右,左,右,左と交互に飛んでくるのなら、それに合わせて風車の向きを前後前後と入れ替えればよい。 家庭用電源にも使われている交流電流は、+−の向きが常に入れ替わっているが、入れ替わりが規則的に行なわれているので電源としての利用価値がある。 もし規則がもっと複雑で、右2回の後左3回とか、右4左2右3左5を繰り返す等だったとしても、とにかく次に飛んでくる分子の出方さえわかっていれば、何らかの手段を構じて分子運動のエネルギーを取り出すことができるであろう。 最も極端な話、全ての分子の位置と運動量があらかじめ分かっていたならば、これから飛んでくる分子の向きを全て予言できるので、分子運動のエネルギーをとことんまで利用することが可能となる。 同じ分子運動の集まりであっても、知っていれば利用可能であり、何も知らなければ利用不可能なのである。 「利用可能か不可能か」の違いは、対象である分子集団の状態で決まるのではなく、利用者が「知っているか知らないか」によって決まることなのである。 熱と仕事の本質的な違いはここにある。 利用する者、あるいは観測者を抜きにすれば、熱と仕事は同一のものだ。 同一の運動量であってもその出方を、つまりある時刻における向きと大きさを、観測者が知っている場合は仕事、観測者が知らない場合は熱ということになる。 ともすると、2人の観測者のうち一方は知っていて他方は知らないという状況があるかもしれない。 このときには同じものが一方にとっては仕事で他方には熱ということになる。 観測者によって内容が異なるという状況は「誰が見ても同様に明らか」という学問の姿勢にとってはやっかいな問題で、できることなら避けて通りたいところではある。 確かに理屈の上では観測者によって内容が異なるのかもしれないが、現実的にそれが問題となることはほとんど無かった。 というのは、従来のテクノロジーでは一つ一つの分子運動を追って仕事に変換するなどというのは夢物語に過ぎず、熱は誰が見ても熱以外のものにはなり得なかったのである。 しかし、今日のテクノロジーは観測者の問題を無視できないところにまで達しつつあると思う。 これまで一部の理屈屋だけがこだわり続けてきた問題を、現実の問題として受け止め直す日もそう遠くはないであろう。 「熱と仕事の違いは観測者の知識によって左右される主観的なものなのか?」 この問題は現在でも完全な解決を見た(一致した公式見解が出ている)わけではない。 本論では「観測者の知識によって左右される」のだという見解をとって、議論を進めることにする。

「知っていれば利用可能、知らなければ利用不可能」感覚的には理解しやすい話である。 例えば風の力を利用することを考えた場合、あちこちから気まぐれに吹かれるより決まった方角から吹いてくれた方が利用価値は高い。 ところで、たいていの実際の風車には、風の吹いてくる方向に向きを合わせる仕掛けがついている。 仕掛けといっても要は風見鳥の応用で、自由に向きを変えられる風車の後ろに羽根がついているだけの単純なものだ。 この「風見鳥型風車」を使えば、どんなに風の向きが乱れても取り出されるエネルギーは変わらないのだろうか。 そうではない。 たとえ風車の向きが自動的に変わる仕掛けがあっても、やはり風向きが安定していた方が乱れていた場合よりも多くのエネルギーを取り出すことができる。 風向きが変わったとき、一番最初の風力はまず風車の向きを変えることに使われる。 実際にエネルギーとして利用されるのは「二番目以降の風」なのである。 風の向きがめまぐるしく変化したならば、風力は風車の向きを変えることにのみ費やされてしまい、それ以上にエネルギーを取り出すことはできなくなってしまう。 自然の風はそう四六時中向きを変えるわけでもないので「風見鳥型風車」でも充分に仕事を取り出すことができる。 しかし、どんなに「風見鳥」ががんばっても仕事を取り出すことができない「風」もある。 それは全くでたらめな方向から吹いてくる「分子の熱運動の風」である。 ある方向から分子が一個飛んできて風車の向きを変えたとしても、次にくる分子は全く別の方から飛んでくるので仕事の足しにはならない。 風車で仕事を取り出そうとすれば、最低2個以上の分子が連続して同じ向きから飛んでくる必要がある。 風車の向きを決定すること、すなわち飛んでくる分子の向きを予測することはただでできるわけではなく、「最初の分子一個分の」エネルギーを必要とするのである。

「情報」と仕事の関係を最初に詳しく論じたのはシラードという人物である。 彼の提唱したモデルは先のマックスウエルの悪魔の弟分ということで、「シラードの悪魔」として知られている。 以下に、このシラードの悪魔を紹介しよう。(1929) シラードは話を単純化するために、気体分子が一個だけの場合を考えた。 いま、箱の中に気体分子が一個だけ入っているものとする。 気体分子は熱運動で箱の中を飛び回っており、分子の運動エネルギー(+ポテンシャルエネルギー)の平均が気体の温度に相当している。 箱の壁は魔法瓶のような断熱壁でできているのではなく、外と熱量をやり取りすることができる等温璧から成るものとする。 つまり、気体分子は箱の壁の熱運動を通じて外部とエネルギーのやり取が行なえる。 ある瞬間にこの箱の中央に隔壁を入れると、気体分子は2つに分れた空間のどちらか一方に入る。 分子の入っていない空間は真空と同じである。 たとえ分子一個であっても気体は真空に向かって膨張しようとするので、隔壁は気体の圧力を受けて真空の側へと押される。 この隔壁を押す力は仕事として取り出すことができる。 隔壁が部屋の隅まで押しきられて仕事を取り出し終えたならば、隔壁を抜き去って最初の状態に戻す。 始めに戻ったところで、また隔壁を箱の中央に入れれば繰り返し何度でも仕事を取り出すことができる。 隔壁を押すのに使われたエネルギーは気体分子の運動エネルギーだが、分子は箱の壁から熱という形でエネルギーを受け取っているので、エネルギーが尽きることはない。 隔壁を入れたり出したりするのにわずかばかりのエネルギーを使うかもしれないが、ここでのエネルギーロスに原理的な下限はないのでいくらでも小さく抑えることができる。 結局、以上の操作によって箱の外の熱を利用可能な仕事に変換したことになる。

ところが、この仕掛けには一つどうしても避けられない問題がある。 それは、隔壁を入れた際に分子が2つに分れた空間のどちらに入ったのかわからないということだ。 これは「分子が右から飛んでくるか左から来るのか」分からないのと同じで、本質的な解決にはなっていない。 ただ、シラードの考えたこのモデルの一歩進んだ点は、「わからなさ」を定量的なエネルギーに換算できるところにある。 もし分子が右にあるのか左なのかが分かったとしたら、この装置から取り出すことができる仕事Wは、気体の体積が2倍に膨張したのと同じ考え方で W=kT*ln(2)となる。 つまり、「右か左か」二者択一の情報はkT*ln(2)のエネルギーに相当するだけの価値があるというわけだ。 シラードは、情報を無償で手に入れることは不可能で、相応の仕事を投じなければならないのだと考えた。 分子がどこにあるのかを見極めるには測定を行なう必要がある。 この測定には必ずエネルギーの代価がかかる。

最も単純な測定方法は「見る」ことだが、これについてブリルアンという人が次のような考察を加えている。(1956) 物体を「見る」ためには対象に光を当てなければならない。 光のエネルギーはいくらでも小さくできるわけではなく、下限が存在する。 なぜなら、温度Tの下に置かれた物体は、その温度と平衡な電磁波(光)を放出するからである。 上の装置では、装置の壁や分子は全て温度Tなので、装置内は温度Tの明るさの光で一様に満たされていることになる。 この中から分子を見つけ出そうとすれば、箱の中を満たしている光以上の強さの光を当てなければならない。 すなわち、測定のための光のエネルギーhvは、辺りに満ちている光の平均エネルギーkTよりも大きくなければならない。

hv>kT
測定に用いられた光は分子を照らし出した後に、「悪魔の目」=測定機に捕えられる。 測定機に信号を伝えた後はもうないので、光のエネルギーはここで熱として破棄される。 改めて装置全体のエネルギー収支を考えると、測定によって熱に変わる光のエネルギーがkT、気体の膨張によって熱から得られる仕事はkT*ln(2)=0.7kTだから、収支決算はマイナスで結局熱を仕事に変換することはできないのである。

上の「悪魔が分子を見る」という説明は、およそ四半世紀の長きに渡って普及していた。 (私の手持ちの、多少古い教科書にもそのように書かれている。) しかしその後、光を全く使わずに、それどころか、測定のプロセスに全くエネルギーを消費せずに分子の位置を言い当てる方法を考案した人が現れた。 C.ベネットという人である。 ベネットは直接可逆的に分子の圧力を測る方法、いわば「手探りで」分子を観測する方法によって、測定には必ずしもエネルギー消費が必要でないことを示したのである。(1982) 以下にベネットの考案した装置の図を掲げる。

(ここに図が入る)

分子を観測する方法には、気体の可逆的な圧縮を利用している。 圧縮したときに、圧力のかかっている箱の方に分子が入っていることが判明する。 一見すると気体の圧縮にはエネルギー消費を要するようにも思えるが、圧縮に要した仕事は気体が膨張する過程で取り返すことができる。 圧縮、膨張を十分ゆっくりと、可逆的に行えばエネルギーの損失はいくらでも小さく押さえることができるだろう。 (この議論は、熱力学で言うところの準静的過程と同じだ。) 測定にエネルギーを消費しないのであれば、やはり「悪魔の装置」によってエネルギーを取り出すことができるのだろうか。 そうではない。 ベネットが見抜いたのは、エネルギーを消費する過程は測定ではなく、もっと後の、測定結果を消去する過程にあったという点だ。 測定に光を用いるか、圧力を用いるかは本質的な部分ではない。 たとえ光を用いたとしても、それを測定後に熱に変えてしまうのではなく、光エネルギーを吸収するような記憶素子に保持すればよいではないか。 しかし、たとえ測定にエネルギー消費が皆無だったとしても、その測定結果を記録した記憶素子=メモリーを消去する際に、どうしてもエネルギー消費が避けられないのである。 なぜか。 測定によって分子が左右いずれにあるか判明したならば、その結果を悪魔は何らかの物理的な実在に反映させなければならない。 この物理的実在のことを「メモリー」と呼ぼう。 メモリーの状態は、分子の状態を反映して2状態のいずれかになるはずだ。 分子が右ならメモリーはR、分子が左ならメモリーはLといった具合に。 問題はR、Lの2状態となったメモリーを、1状態であるような初期状態に戻せるかどうか、という点にある。 我々は、2状態ものを1状態に戻す方法、あるいはそのような物理的実在を何1つ知らない。※ 力学に忠実に考えるなら、2状態の原因からは、やはり2状態の結果が得られる。 メモリーを1状態に戻すには、どうしても余分な状態数をメモリーの外に持ち出す必要がある。 つまり、メモリーから熱という形でエネルギーを散逸する必要がある。 しかし、そもそもメモリーを初期の1状態に戻す必要はあるのだろうか。 測定がただ1回だけで終わるのであれば、元に戻す必要はない。 しかしこれだとメモリーは1回きりの「使い捨て」になってしまう。 では、最初から2状態でスタートして、結果がL、Rの2状態となるような都合の良いメモリーは存在しないのだろうか。 そういったメモリーは、やはり力学的に存在しない。 初期のメモリーがL0、R0の2状態、分子の位置が右、左の2状態であれば、全ての場合の数は(L0-右)(R0-右)(L0-左)(R0-左)の4通りである。 この4通りから、測定結果L1、R1の2通りの状態に遷移することはできない。 状態数が増えた分だけ、必ずどこかでエネルギーの散逸が必要となるはずだ。
  「悪魔は忘れることができない」
これがベネットのたどり着いた結論である。

ベネットの考察は、見方によっては重箱の隅をつつくような些細な問題と思えるかもしれない。 どのみち「不可能」という結論が出ることはわかっているのだから。 しかし、この考察の意味するところは大きかった、と私は受け止めている。 実のところ、このベネットの考察がなかったら、今ここに書かれている本論は無かった。 ただ、本論の考察では結論が「可能」に置き換わっているというのが違いらしい違いである。

分子の位置や運動量を知っていれば、そこから仕事を取り出すことができる。 「知っている」ということは「利用可能なエネルギーを有している」のと等価なのである。 エネルギーが勝手に増えないように、「情報」も自然に増やすことはできない。 情報を保持するにはメモリー、つまり状態を保持する何らかの物理的実在が必要であり、メモリーの消去にはエネルギーの散逸が不可欠だからである。 「情報+利用可能なエネルギー」の総和は、減ることはあっても増えることはない。


実は1つだけ、「ブラックホール」という物理的実在が2状態を1状態に押し潰してしまうのではないか、という懸念がある。 かつてはブラックホールは何でも飲み込んでしまうものと考えられていたが、最近では何らかの形で情報が返ってくるという説が主流になりつつある。 この辺のところは先端の物理学でも最もホットな話題で、まだ最終的な結論は下されていない。
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